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「それでは、末永さん。挨拶をお願いします」
私は目を開けると三ツ川商事のファッション事業部に配属された時に戻っていた。
「末永亜香里です。よろしくお願いします」
咄嗟に頭を下げると「初々しい」と周りが拍手した。
若いだけでチヤホヤされた時代を懐かしく思いつつ私が顔を上げると、博貴と目が合った。
私が22歳、彼は25歳。
私は博貴との出会いの瞬間に戻ったようだ。
彼とはまだ付き合ってさえいない。
彼と付き合わず、結婚などしなければきっと不幸は起こらない。
「じゃあ、桜井くん。末永さんの教育係を頼めるかな?」
田中室長が私の教育係として、経理から営業に異動してばかりの桜井博貴を指名する。
「もちろんです」
懐かしいやりとりを見ながら、私は彼と仲を深めてしまったこの関係を断ち切ろうと思った。
「田中室長、すみません。私、男の人が苦手なので他の方に教育係を頼めるとありがたいのですが」
おそらく年次の近い博貴が教育係になるのは妥当だ。
しかし、私はダメもとでお願いしてみた。
「商社はまだまだ男社会だよ。男嫌いなんて言ってたら務まらないぞ。じゃあ、桜井、男嫌いの末永ちゃんに男を教えてやってくれ」
田中室長のセクハラ紛いの言葉に、寒気がすると同時に、この会社はこういうところだったと失望した。
取引先のおじさんから下着の色を聞かれても、ヘラヘラと応えることが当たり前の世界だ。
最初、戸惑ってしまって取引先のおじさんの機嫌を損ねてしまったことがあった。
その寒々しい雰囲気を抜群のコミュ力で変えてくれたのが博貴だった。
彼は新入社員の私にとっては憧れの先輩だった。
「末永さん、今日から宜しくね。なんか、俺の接し方で嫌だなーって思うところがあったら言ってくれれば良いから」
にこやかに近づいてくる博貴に「お前の存在が嫌だ」と言いたかったが周囲の目が合ったので耐えた。
「新入社員向けに社内用語試験っていうのがあるんだけど、実は俺新入社員の時に満点だったんだ。勉強のコツ教えてあげるね」
博貴が耳元で私に囁いてくるのにゾッとした。
回帰前のこの瞬間は私はときめいて、彼のことを親切な先輩だと認識した。
学生の真似事のようなお勉強ごっこをプライベートでしてしまうことで、この後私たちは急速に距離を縮めてしまう。
「結構です。コツなどなくても、『社内用語辞典』を丸暗記すれば満点を取れますよね」
「末永さんの言うとおりだ。なんだか、末永さんって気持ちが良い人だね」
私を煽ててくる博貴にうんざりする。
社内用語試験など、新入社員の時は難しく感じたが8年勤務した経験のある私からすれば朝飯前だ。
「じゃあ、早速、仕事を教えるね」
「お願い致します」
周囲の目があるので取り敢えず愛想よく振る舞う。
新入社員の時に教わった仕事ど、入社8年目だった私からすれば教わるまでもない。
でも、最初から仕事内容を知っていたら不自然なので取り敢えず教わるフリをするしかないだろう。
「末永さんって優秀なんだね。一回で何でも覚えてしまうタイプ?」
私ににこやかに話掛けてくる博貴に寒気がする。
「さあ、普通ですよ」
冷たく言い放つ私に明らかに博貴が戸惑っているのが分かった。
「午後は、取引先の社長が来るから紹介するね。お昼はせっかくだから一緒にランチ食べに行こうか。美味いパスタ屋があるんだ」
お昼休みの開始を知らせるチャイムがなると博貴がランチに誘ってくる。
「お断りします。私、今日、ランチにお誘いしたいと思ってた方がいるんで」
私はここにいる将来の博貴の浮気相手の鈴木菜々子と一緒にランチをしようと思っている。
私は派遣である彼女の仕事振りを尊敬していた。
しかし、浮気が発覚した時、彼女は私のことを嫌いだったと恨みの籠った目で睨んできた。
「鈴木さん。鈴木さんも今日からですよね。一緒にランチしませんか? 」
私より2歳年上の鈴木菜々子さんは派遣社員だ。
丸の内にある菱紅物産の契約期間が満了して、大手町にある三ツ川商事に来た。
彼女は私と同日にファッション事業部に配属された。
私とは違って愛想があり、セクハラ発言も受け流すような人だった。
事務仕事も非常に手早く正確だったと記憶している。
よく彼女は部の人間に手作りお菓子を配っていて、私はそのお菓子を食べるのを楽しみにしていた。
「え、はい。宜しくお願いします」
私の誘いに戸惑いながら、お財布を握りしめる彼女に笑顔を作る。
回帰前最後に見た彼女は、博貴と不倫をしたことに悪びれもせず私を責めた。
「人のこと見下してるからだよ。ずっとあんたが嫌いだったザマアミロ」
ドスの聞いた声で恨みがましく言われたのを覚えている。
私は彼女を見下したことはないし、むしろ好感を持っていた。
だから彼女がこれから私を誤解しないようにランチに誘うことにしたのだ。
私への憎しみから博貴と不倫関係になるとしても、そんなことはどうでも良い。
私は今世では徹底的に博貴とは関わらないつもりだ。
「何が食べたいですか? 実は、私この辺のお店結構詳しいんです」
ついこの間まで学生の私がオフィス街のランチに詳しいのは若干不自然だが、仲良くなるためには美味しいものを一緒に食べた方が良いだろう。
「何か辛いものが食べたいです。末永さんは辛いものは大丈夫ですか?」
回帰前の鈴木さんの冷ややかな般若のような表情が印象に残っているからか、今の彼女の笑顔は貴重に感じた。
博貴に殺されたことで、私の彼女への恨みは無くなったように思う。
今は、「あのような男くれてやる、いや、もらってくれ!」くらいの気持ちだ。
「大好きです。今日は2人とも黒い服を着ているし坦々麺を食べに行きませんか? 美味しいお店知ってるんです」
「黒い服と坦々麺って関係あるんですか? 」
「汁が飛ぶじゃないですか。結構、落ちないですよ、坦々麺の汁は! 」
私の言葉に鈴木さんが爆笑している。
よく考えれば同じ職場で同日に勤務を開始した仲間なのに、仕事以外で話したのははじめてだ。
前回、私は早くから教育係の博貴にロックオンされてしまったせいか他の同僚との関係が希薄だった。
鈴木さんは私の案内した店に入るとソファーの席を私に薦め、自分は手前の椅子席に座ろうとした。
私はこういう細かい気遣いができる彼女を尊敬していたが、一度もそれを口にしたことはない。
「いえいえ、鈴木さんがゆったり席に座ってください。私、椅子派なんです」
「あ、そうなんですか。では、遠慮なく」
鈴木さんはゆったりしたソファー席に座った。
「私は黒胡麻坦々麺にしますが、鈴木さんはどうしますか?」
「末永さん、決断早いですね。では、私は普通の坦々麺にします」
私がメニューを即決したことにより、鈴木さんを慌てさせてしまったかもしれない。
私は元々決断が早いが、もっと熟考してから行動を起こせば死なずに済んだかもしれない。
前回は宝くじに当たったことを博貴には言わない選択をしたが、彼は私が宝くじを買っていたことを知っていた。
もしかしたら、私の目を離した好きに番号をメモして当選した事実を把握してた可能性がある。
彼が私の当選金目当ての殺人をしていると仮定すれば、離婚を申し出たときに私の財産を奪おうと私を殺す選択をするはずだ。