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第0話 夜に捧ぐ白花
夜が明けるたび、村人たちは神に感謝した。
東の空が白み、教会の鐘が鳴り、昨日と変わらぬ朝が訪れる。そのささやかな奇跡を、人々は当然のように享受していた。
ただひとり、マリを除いて。
彼が生まれた夜、月は姿を隠したという。
星明かりさえ失われた空の下、森の鳥たちは一斉に飛び立ち、家畜は檻の中で狂ったように暴れた。産声が響いたのは、その騒乱がもっとも深まった頃だった。
母親の腕に抱かれた赤子は、雪のように淡い髪をしていた。
そして、開かれた瞳を目にした者たちは、揃って息を呑んだ。
その色を、誰も知らなかった。
人の子に宿るはずのない、不吉な光。
産婆は十字を切り、父親は顔を背け、窓辺に集まった村人たちは囁き合った。
災いが生まれたのだと。
その夜を境に、村では奇妙な出来事が相次いだ。
家畜の失踪。季節外れの霜。誰も踏み入れていない墓地に残される、濡れた足跡。
それらが本当に赤子の誕生と結びついていたのか、知る者はいない。
けれど、人は恐怖に理由を求める。
そして、理解できないものに名前を与えることで、どうにか己の安寧を保とうとする。
――忌み子。
それが、彼に与えられた名だった。
*
十八年の歳月を経ても、村人たちの態度は変わらなかった。
マリは村の外れにある小さな小屋で暮らしていた。
壁板は痩せ、窓枠は歪み、冬には隙間風が寝台の下を這い回る。雨が降れば天井から雫が落ち、乾いたパンと薄いスープが食卓を飾る日も珍しくなかった。
それでも、マリは与えられた暮らしを疑わなかった。
ほかの生き方を知らないのだから、比べることもできない。
朝になれば井戸へ向かい、水を汲む。薪を割り、頼まれた仕事を済ませ、日暮れまで黙々と働く。
誰かの役に立てば、少しは嫌われずに済むかもしれない。
幼い頃から抱き続けている、ささやかな期待だった。
けれど、村人たちが彼に求めるものは、従順さだけだった。
感謝はされない。
笑顔を向けられることもない。
ただ、失敗をすれば叱責が飛び、道ですれ違えば、相手はあからさまに顔を背ける。
マリの顔には、いつも黒いレースが掛けられていた。
目元を覆う薄布は、幼い彼に村の大人たちが与えたものだ。
その瞳を人に見せてはならない。
目を合わせれば、相手に災いが降りかかる。
そう言い聞かされて育ったマリは、やがて自分の顔をまともに確かめることさえ諦めた。
黒い布の向こうから世界を眺めることに、慣れてしまったのだ。
村の子供たちは、彼を見つけると決まって囃し立てた。
子供A:「おい、忌み子。まだ生きてたのか」
子供B:「こっちを見るなよ。気味が悪い」
子供C:「お前、顔を隠さないと生きていけないんだろ?」
マリは足を止めた。
彼らの言葉が、どうしてそれほど面白いのかはわからない。
マリ:「……おれ、何かした?」
問いかければ、子供たちは顔を見合わせた。
やがて、ひとりが吹き出し、残りもつられるように笑い出す。
子供A:「そういうところが気持ち悪いんだよ」
投げつけられた言葉が、石ころのように足元へ落ちた。
マリはしばらく黙っていた。
何かを間違えたのだろうか。
もっと違う答え方をすれば、彼らは笑わなかったのだろうか。
考えてみても、わからなかった。
やがて子供たちは去っていった。
残されたマリは、地面に落ちた水汲み桶を拾い上げ、こぼれた水を見つめた。
水面には、黒いレースを掛けた自分の影が揺れている。
マリ:「……変なの」
誰に向けるでもなく呟き、彼は再び歩き出した。
その声に、怒りはなかった。
ただ、少しだけ困ったような響きが残っていた。
*
村の北側には、古い石垣に囲まれた花畑がある。
かつては誰かが手入れをしていたのだろう。崩れた石垣の隙間から蔓草が伸び、土の上には枯れ枝が積もっている。
それでも、季節が巡れば花は咲いた。
マリがその場所を見つけたのは、春の終わりだった。
水汲みの帰り道、風に吹かれて足元を転がる白い花弁を見つけた。どこから来たのか気になって追いかけた先に、草むらに埋もれるようにして咲いた一輪の花があった。
淡い白。
朝露を宿した花弁。
陽の光を受けて、縁だけが透き通るように輝いている。
マリは、その場に膝を折った。
マリ:「……きれい」
その言葉は、誰かに聞かせるためのものではなかった。
胸の奥に生まれた感情を、初めて見つけた宝物のように、そっと声へ変えただけだった。
花は何も語らない。
恐ろしいとも、気味が悪いとも言わない。
ただ、風に揺れながらそこに咲いている。
マリは翌日も、その場所を訪れた。
その次の日も。
気づけば、花畑へ向かうことが一日の楽しみになっていた。
朝には花弁の開き具合を眺め、夕暮れには風に折られていないか確かめる。雨の日には、細い茎が重みに耐えられるだろうかと心配した。
花の名前は知らない。
どうして白いのかもわからない。
それでも、花はそこにある。
そのことが、マリには嬉しかった。
マリ:「ねえ。おまえは、なんでそんなにきれいなの?」
返事はない。
マリ:「……おれも、きれいなものになれたらいいのに」
言ってから、少しだけ首を傾げた。
きれいなものになれば、誰かが好きになってくれるのだろうか。
そんなことを考えた自分が、なんだかおかしかった。
マリは小さく笑い、花弁に触れないよう指先を引いた。
摘み取ってしまうのは、惜しかった。
せっかく咲いているのだから、ここにいてほしい。
自分が明日も、明後日も、会いに来られるように。
それだけの願いを、マリは誰にも話さなかった。
*
十八歳の誕生日を迎えた朝、マリの小屋に来客があった。
戸を叩く音は乱暴で、返事を待つ気配もない。
村長の使い:「マリ。村長がお呼びだ。すぐに来い」
マリ:「……おれ?」
村長の使い:「ほかに誰がいる」
男は不機嫌そうに言い捨て、踵を返した。
マリは閉じた戸をしばらく見つめていた。
今日、何か特別な日だっただろうか。
誕生日だということは覚えていた。けれど、これまで祝われたことなど一度もない。
いつもどおりの朝に、いつもと違う呼び出し。
それが少しだけ不思議だった。
マリは黒いレースの結び目を確かめ、小屋を出た。
集会所には、村人たちが集まっていた。
彼が戸口に立つと、話し声がひとつ、またひとつと途切れていく。
向けられる視線には、嫌悪だけではないものが混じっていた。
恐れ。
警戒。
そして、長く待ち望んだ厄介事がようやく終わるときの、薄汚れた安堵。
村長:「来たか」
祭壇の前に立つ老人は、皺の刻まれた顔をわずかに上げた。
村長:「マリ。お前は明日、この村を出る」
マリ:「……どこに?」
村長:「吸血鬼の館だ」
聞き覚えのある名だった。
夜の森の奥には、人ならざる者たちが暮らす古い館がある。
村の大人たちは、悪いことをした子供を脅すとき、その名を口にした。
夜更けに外を歩けば連れていかれる。
森に入れば帰ってこられない。
吸血鬼は人の血を啜り、魂まで喰らうのだと。
けれど、マリは恐れなかった。
恐ろしい話を聞いたことはあっても、吸血鬼を見たことはない。
知らないものを、どう怖がればいいのかもわからなかった。
マリ:「なんで、おれが行くの?」
村長は、わずかに眉を寄せた。
村長:「お前には、あちらへ差し出すだけの価値がある」
マリ:「……価値?」
村長:「余計なことを知る必要はない。迎えの者が来たら、黙って従え」
マリは口を閉ざした。
帰ってこられるか、と尋ねようとして、やめた。
この村で、自分の言葉に真剣に耳を傾けてくれる人はいない。
きっと、答えは返ってこない。
それでも、ひとつだけ尋ねた。
マリ:「……明日まで、ここにいてもいい?」
村長:「好きにしろ。どうせ、お前の居場所などここにはない」
その言葉を聞いても、マリは泣かなかった。
ただ、ゆっくりと頷いた。
マリ:「……そっか」
その一言で、話は終わった。
村人たちはもう、彼に関心を向けていなかった。
*
夕暮れ、マリは花畑を訪れた。
空は薄紫に染まり、森の向こうから夜の影が静かに這い寄っている。
白花は、昨日と変わらぬ姿でそこに咲いていた。
マリはしゃがみ込み、花のそばへ顔を寄せた。
マリ:「ねえ。おれ、明日ここを出るんだって」
風が吹いた。
白い花弁が揺れ、細い茎がわずかに傾く。
マリ:「吸血鬼の館に行くんだって。……どんなところなんだろうね」
答えはない。
マリ:「おまえみたいな花、向こうにもあるかな」
少し考えてから、マリは首を傾げた。
マリ:「……あったら、いいな」
それが本心だった。
誰かに優しくしてほしいとか、幸せになりたいとか。
そんな大きな願いを、彼はまだ知らない。
ただ、綺麗なものを見つけたら、また眺めたい。
気に入ったものがあれば、そばに置いておきたい。
それだけだった。
マリは花を一輪だけ摘み取った。
茎を傷めぬよう、花弁を潰さぬよう、慎重に指を添える。
小屋へ戻ると、古い本の頁を開き、そのあいだに白花を挟んだ。
いつか押し花になったら、また眺められるだろうか。
そんなことを考えながら、そっと本を閉じる。
夜が深まる。
窓の外には、月のない空が広がっていた。
マリは寝台に横たわり、枕元の本へ手を伸ばした。
明日から、自分はどこへ行くのだろう。
誰に会うのだろう。
そこには、花畑のような場所があるのだろうか。
答えは何ひとつない。
それでも、マリは静かに目を閉じた。
明日を迎えることに、期待も恐怖も抱かぬまま。
ただ、白い花の夢を見られたらいいと願いながら。
*
同じ頃、深い森の奥に建つ館では、古い書物が開かれていた。
革表紙には年月を経た傷が刻まれ、黄ばんだ頁には、すでに滅びた血統についての記録が残されている。
蝋燭の火が揺れるたび、古い文字の影が壁に踊った。
その一節を、赤い瞳が静かに追っていた。
――月なき夜に生まれし者。
――白き髪と異なる瞳を持ち、その血は夜の眷属に比類なき恵みをもたらす。
――一度その味を知れば、忘れ難き渇望を残す。
記録はそこで途切れていた。
けれど、それだけで十分だった。
セシル:「……記述どおりであれば、明日お迎えする方は、我々にとって非常に貴重な存在ということになりますね」
丸眼鏡の奥で、赤い瞳が細められる。
ルカ:「記録は古い。伝承がそのまま真実とは限らない」
セシル:「もちろんです。ですが、確かめる価値はあるでしょう」
ニコ:「ふふ。長いあいだ、誰も確かめられなかったんだものね」
柔らかな声には、隠しきれない好奇心が滲んでいた。
ジン:「伝説の血か。そいつは楽しみだな。普通の人間とは、ずいぶん違うんだろ?」
レイ:「期待しすぎるな。まだ、実物を見ていない」
ルイ:「でも、明日には来るんだろう? ねえ、兄さん。少しくらい浮かれたっていいじゃないか」
レイ:「……お前はいつもそうだ」
ルイ:「退屈な日々に、少しくらい楽しみがあってもいいだろ?」
窓辺に佇んでいた朔は、しばらく沈黙を守っていた。
朔:「……古い記録が真実なら、軽んじるべきものではないな」
それきり、彼は再び口を閉ざした。
七人の反応は、それぞれ異なっていた。
疑念を抱く者。
好奇心を募らせる者。
伝承の真偽を確かめようとする者。
けれど、彼らの関心は、ひとつの場所に集まっていた。
明日、この館へやってくる青年。
その血に宿る、伝説の価値。
彼らはまだ、マリの声を知らない。
笑い方も、好むものも、何に傷つくのかも知らない。
彼らにとってマリは、ひとりの人間である以前に、長い生の中でも滅多に出会えない、極上の糧だった。
セシル:「お迎えの準備を整えましょう。客室も食卓も、相応しいものをご用意いたします」
ルカ:「血の価値を確かめるまでは、慎重に扱うべきだ」
ジン:「わかってるよ。大事な食事を台無しにするつもりはないさ」
軽い口調に、誰も咎める言葉を返さなかった。
それが、彼らにとっての共通認識だった。
明日、マリが館へやってくる。
その血を味わうことを、七人は待ち望んでいた。
けれど、誰ひとりとして、その青年の心に思いを馳せる者はいなかった。
彼がどんな暮らしをしてきたのか。
何を大切にしているのか。
何を失うことを恐れているのか。
知ろうとする理由が、まだなかったのだ。
*
夜明け前。
村の外れでは、ひとりの青年が静かに眠っていた。
枕元には、古い本が置かれている。
閉じられた頁のあいだには、一輪の白花。
やがて、朝が来る。
迎えの者が訪れ、マリはこの村を去るだろう。
彼を送り出す者たちは、厄介事が消えることに安堵する。
館で待つ者たちは、伝説の血を手に入れることを喜ぶ。
そのどちらも、まだ知らない。
ひとりの青年を迎え入れることが、彼らの長い生を、どれほど深く変えてしまうのかを。
マリは、まだ何も知らない。
自分の血が伝説に記されていることも。
その血を求め、七人の吸血鬼が夜の館で待っていることも。
ただ、夢の中で白い花を眺めていた。
夜明けは近い。
そして、白花を手放さぬ者たちの物語が、幕を開けようとしていた。
コメント
1件
うわあ、これ、美しくて切なくて…一気に引き込まれました。マリが「変なの」って呟くシーン、すごく心に残ります。怒りも悲しみもなくて、ただ困ったように言うんだ…。あと、白い花との静かな対話、あれが彼のたった一つの救いなんだろうな。そういう細かい感情の積み重ねが本当に丁寧で、吸血鬼たちの「血の価値」しか見てない冷たさとの対比がもう…。伏線も気になるし、続きが待ち遠しいです!