Side翔太
海の底は、静かだった。
泡一粒すら弾けない、朝と夜の境目のような青の中を、ぼくはひとり漂っていた。
ここは王宮の裏手にある、誰も近寄らない深い入り江。
金の鱗を持つ兄たちはみな武器の稽古か外交の学びに忙しくて、末っ子のぼくの居場所なんて、こんなところしかなかった。
でも──嫌いじゃなかった。
むしろ、この静けさが好きだった。
海流の音、貝殻が岩にぶつかるわずかな音。
そして、胸の奥にふと浮かんでくる、あの“少年”の記憶。
あれは、いつだったろう。
もっと幼くて、まだ尾びれにうまく力も入れられなかった頃。
こっそり海面まで浮かび、岩陰から地上を見ていたときだった。
──人間の子どもが、ひとりで砂浜にいた。
潮の音に紛れて聞こえてきた、楽しげな笑い声。
水辺を駆けて、手を広げて、太陽の光をいっぱいに浴びていた少年。
年はぼくと同じくらい。髪は濡れたような黒、肌は夏の光に焼けていて──でも目だけが、どこか大人びていた。
岩陰にいるぼくの存在には気づかないまま、その少年は何かの貝を拾っては空にかざして笑った。
その笑顔が、ぼくの胸の奥をぎゅっと締めつけたのを覚えている。
怖かった。
でも、どうしても目が離せなかった。
そして、ほんの一瞬。
彼が、こちらに気づいたように見えた気がした。
──でも、きっと気のせいだ。
あのあと、兄たちに見つかってこっぴどく叱られて。
それ以来、ぼくは地上に行くことを禁じられた。
けれど、どうしても忘れられない。
きっと、あのとき出会った少年が、ぼくの“最初の光”だった。
名前も知らない。
言葉も交わせなかった。
だけど、笑っていた彼の横顔は、今でもまぶたの裏に焼きついている。
(──もう一度、あの目を見てみたい)
ふと、泡の粒が頬をかすめた。
思考を現実に引き戻されて、ぼくは目を伏せる。
そして…
俺はもうすぐ、十六歳になる。
この海で生まれて十六年。末っ子として生きてきた俺。
地上への憧れを抱いたまま月日は過ぎていった。
俺のような末の子が、気軽に夢見ていい場所じゃない。
「また浮かんでたのか」
低くて落ち着いた声に、ふと我に返る。振り返れば、長兄のめめ──目黒兄さんが、いつの間にか俺のすぐ後ろにいた。
大きな黒い尾びれを揺らしながら、俺の隣にゆったりと並ぶ。
光の届かない深い海の底にいても、兄さんはまるで影のように静かに立っていた。
「地上なんて、見て何になる。何もお前の居場所じゃない」
その言葉は、もう何度目か分からないほど聞いた台詞だった。
けれど、今回は、少し違って聞こえた。
「見るだけでいいんだ」と言い返しそうになって、でも俺は唇を噛む。
「見るだけで済むなら、誰も苦労しない」
そう言ったのは、第二王子の阿部兄さんだった。
俺の背後から静かに現れたその人は、目黒兄さんと違っていつも穏やかだったけれど、今日は少しだけ語気が強かった。
「翔太、お前の声は、この海の宝だ。それを簡単に人間に晒すなんて、俺は……許せない」
「……わかってるよ。けど、俺だって……」
俺だって、知りたいんだ。
“あの少年”が今もあの浜辺にいるのか。
あのときの笑顔が幻じゃなかったのか。
でも、口にすればふたりはきっともっと強く止めるだろう。
「ほんとにわかってるか?」
目黒兄さんの視線が、真っすぐ俺を貫いた。
深海よりも深いその目に、俺は目をそらすしかなかった。
わかってる。
わかってるけど、それでも──
心が勝手に、浮かび上がっていこうとする。
あのときの光、あのときの少年、あのときの声なき出会い。
胸の奥が泡のようにふくらんで、どうしても、消えてくれない。
あと、ほんの少しでいい。
この想いを確かめに行けるのなら。
(お願いだから、止めないで)
そう願った俺の声は、兄たちにはきっと届かなかった。
――――――――夜の海は、ひどく静かだった。
眠りについた珊瑚礁の上を、俺はゆっくりと泳いでいた。
尾びれの音すら立てないように──兄たちに気づかれないように。
王宮の灯りはすでに落ちている。
目黒兄さんは警備の確認に。阿部兄さんはおそらく、寝室で書物に目を通している頃だろう。
ふたりの気配が離れたこの隙を、俺は待っていた。
これまで何度も思いとどまってきた。
「見たい」という気持ちを押し殺し、「今じゃない」と自分に言い聞かせた。
けど、気づいていた。
──そんな“いつか”なんて、たぶん来ないって。
俺が望む“あの場所”は、自分で取りに行かなきゃ、永遠に手には入らない。
誰にも理解されなくたって構わない。
俺の胸の中にある、どうしようもないこの渇きだけは、もう無視できなかった。
浮上を始めると、海水が冷たく変わっていくのがわかった。
圧力が緩み、光がわずかに差し込んでくる。
──ああ、近づいてる。
心臓が痛いほどに脈を打っていた。
怖い。けれど、それ以上に、息が詰まるほど胸が高鳴っていた。
地上に触れた者は、戻れなくなるかもしれない。
人間は危険で、冷酷で、俺たちのことなんて知らない。
──そんな話、何度も聞かされてきた。
でも、それでも、俺は……見たいんだ。
“あのときの少年”が、まだこの世界のどこかにいるのか。
あの笑顔が、夢じゃなかったと確かめたい。
この胸の奥で今も静かに灯ってる火が、
ほんの一瞬でも、届く場所に行きたい。
まばゆい月明かりが、水面から差し込んでくる。
あと少し、あとひと掻きで届く。
(お願いだ、兄さんたち……今だけ、俺を見逃して)
そう心の中で願いながら、俺はひとり、海面へと手を伸ばした。
……水面を、破った。
顔を出した瞬間、世界がひっくり返ったような気がした。
見慣れた海の青ではなかった。
そこにあったのは──
透きとおるような空の蒼。
雲がゆっくりと流れていた。
高く、広く、終わりなんて見えない空。
俺がこれまで想像でしか知らなかった“天井”は、想像よりもずっと遠くて、あたたかくて、優しかった。
頬に風が触れた。
少し冷たくて、でも柔らかい。
髪が揺れて、尾びれが水面を小さく撫でた。
……これが、地上の空気。
これが、空。
息をすることも忘れて、俺はその広がりにただ見とれていた。
心が震えるって、こういうことなのかもしれない。
胸の奥がじんわりと熱くなって、なぜかわからないけど、涙がにじんできた。
──何かを、届けたくなった。
この感動を。
この震えを。
この瞬間の“生きてる”という証を。
気づけば、俺の唇は自然に動いていた。
ゆっくりと。
どこまでも静かに──でも、確かに歌になっていた。
歌詞なんてなかった。
旋律も、決まってなかった。
ただ俺の心が、俺の声を連れて、空に向かって飛んでいく。
誰が聞いているわけでもない。
観客も、評価する誰かもいない。
でも、それがたまらなく気持ちよかった。
俺の声が、風に溶けていく。
波のきらめきがリズムのように寄せて返して──まるで、世界が俺の歌を包んでくれているようだった。
この瞬間のためだけに、生きていたような気がした。
―――――――――――
Side涼太
風が心地よかった。
午後の陽はまだ傾き始めたばかりで、空はどこまでも晴れわたり、海の色を静かに反射していた。
波も穏やかで、まるでこの先もずっとこの航海が平和であるかのように思わせる光景だった。
俺は甲板の上、誰もいない手すりに寄りかかって、静かに目を閉じていた。
軍務でも外交でもない、ただの巡航。
父王から下賜されたこの休暇を、どうにか持て余していた俺にとって、この風だけが唯一、救いのように感じられた。
ときどき、ひとりでいるときに思い出す。
──あの夏のことを。
子どもの頃、城を抜け出して訪れた海辺。
あのとき見た、ほんの一瞬の幻。
誰にも言えなかった、不思議な記憶。
海の向こうに──誰かがいた。
目が合った気がした。
夢だったのかもしれない。
でも、その光景だけが、今でも色褪せずに残っている。
そのときだった。
空気が、ひやりと変わった。
首筋に走る風が冷たくなり、次の瞬間、青かった空に黒い雲が広がり始めた。
「……嵐?」
呟いた声がかき消されるより早く、海がざわめき、波が荒れ、船が大きく軋んだ。
船員たちがどこからともなく駆け出し、帆を畳む声、舵を取る怒号が飛び交う。
だが俺は、その場から動けなかった。
不安と緊張のただ中で、耳が拾ったのは──
……歌声だった。
風に乗って、どこからともなく聞こえてくる。
美しく、透きとおっていて、悲しみとも喜びともつかない旋律。
思わず、空を見上げる。
いや、違う。
──海のほうだ。
波の合間、かすかに浮かぶ白い光。
人影? いや、そんなはずは──
「誰か……いる?」
俺はまるで夢を見ているかのように、手すりを握る手に力を込めた。
雷鳴がとどろき、風が唸りを上げる。
歌声は、消えない。
逆に、嵐の中でますます際立って、俺の耳に、心に、染みこんでくる。
不思議だった。
――――――帆が裂ける音が空を裂き、甲板が傾き、俺の足元が大きく揺れた。
次の瞬間、船体が激しく軋んで──体が、宙に浮いた。
「っ……!」
視界がぐらりと傾く。
手すりをつかもうと手を伸ばすが、間に合わない。
船の一部が激しく揺れて崩れ、板が砕け、飛び散った破片が雨のように降ってきた。
「殿下っ!!」
付き人の声が飛ぶ。
俺の手を掴もうと伸ばされた腕が、必死に俺の袖を捕らえる。
でも──
「……っ!」
掴まれた布が破けた。
手が、滑った。
その瞬間、時間がゆっくりになった気がした。
船の灯りが遠のいていく。
付き人の手が、俺に届かないまま、空を切っている。
誰かが叫んでいる。
でも、その声すら、風と波にかき消された。
次の瞬間──俺は、海に、落ちた。
冷たい水が一気に体を包む。
視界は一瞬で暗くなり、肺の中の空気がぐっと押し出される。
上と下の区別がつかない。
どこに光があるのかもわからない。
ただ、水圧と冷たさだけが容赦なく体を締めつけてくる。
(……ああ、これが……死ぬってことか)
不思議と、恐怖はなかった。
ただ、ひとつだけ、心に残ったのは──
あの歌声。
……誰のものかも、わからない。
でも、確かに聞こえていた。
嵐の中で、唯一、俺に届いた声。
あの声に、もう一度、触れたかった。
名前も知らない君に──もう一度。
泡のように意識が遠のく中、
俺の体はゆっくりと、暗い海の底へ沈んでいった。
――――――――
Side翔太
嵐が、荒れ狂っていた。
空は唸りをあげ、波は獣のように渦を巻いていた。
さっきまで透きとおっていた海面が、怒りの色に染まり、俺の歌声すら呑み込もうとしていた。
それでも俺は、海面のすぐ下に身を潜め、ただ風と波の音を聞いていた。
不思議だった。
嵐のただ中でさえ、胸の奥は静かだった。
何かが、近づいてくる気がしていた。
──そのとき、見えた。
船の甲板から、ひとりの男が投げ出された。
付き人らしき人間の手が空を切り、彼はそのまま、暗い海へ落ちていった。
時間が止まったようだった。
風も、波も、声も、すべてが遠ざかっていく。
俺は本能で尾びれを蹴り、深く深く、彼を追った。
水の中で舞う黒い髪。
意識を失った体は力なく沈んでいき、気泡だけが彼の周囲にゆっくり立ちのぼる。
──あのときの少年、だ。
間違いなかった。
ずっと記憶の中で光っていたあの瞳。
少年だった彼は、大人になっていて、思っていたよりもずっと綺麗で、ずっと、遠い存在になっていた。
指先がふるえていた。
こんなにも近くにいるのに、声をかけることもできない。
そっと、彼の頬に手を添えた。
冷たい。
こんなにも、冷たいのに──触れた指先から、心だけが、温かくなる。
「……起きて」
どうか今、ここで目を覚まして。
俺を見て。
名前を知らなくてもいい。顔を覚えてなくてもいい。
──ただ、生きて。
俺は彼の体をそっと抱き寄せ、胸に当てた。
尾びれを蹴って、海面を目指す。
重たい体。
でも、苦しくなかった。
彼を抱いているだけで、全身が不思議なくらい、軽かった。
海面が近づく。
その横顔を見つめながら、俺はそっと思った。
(……やっぱり、君は綺麗だ)
まるで月の光を閉じ込めたような肌。
深い海の色を写したような髪。
そして、眠りの奥で微かに動く唇。
──この人の名前が、知りたい。
―――――ようやく、陸が見えた。
波打ち際に近づいたときには、俺の腕の中の彼はすっかり冷たくなっていた。
暗く濡れた髪が頬に張り付き、口元はうっすらと開いていた。
まるで、眠っているみたいだった。
だけど──このままじゃ、だめだ。
俺はそっと彼を抱いたまま、砂浜に身体を預けた。
肩を濡らしながら、やっとの思いで彼を横たえる。
衣服は水を吸い、重く波に貼りついていた。
顔が、青い。
青白くて、苦しそうで、呼吸の気配がない。
俺は手を伸ばしかけて──そこで動きを止めた。
触れたい。
でも、触れてしまったら戻れない気がした。
もうすでに、胸の奥がぎゅうっと苦しくなるくらいには、彼を知ってしまっていた。
──そのときだった。
「……グッ、ゴホッ……グフッ!」
かすかに体が震え、喉が動いた。
そして彼は、のどを詰まらせたように咳き込み、胃の底から水を吐き出した。
その音が、やけに大きく響いた気がした。
口から吐き出された海水が砂に吸い込まれ、
次の瞬間、小さく、でも確かに──呼吸の音が聞こえた。
「……っ」
よかった。
息をしてる。
生きてる。
胸の奥が、ふっとゆるんだ。
この瞬間を、ずっと待っていた気がした。
けれど、それ以上近づいてはいけないような気がした。
まだこの人の人生に、俺は触れられない。
俺は彼の髪から砂を軽く払って、指先でその額にかかる濡れた前髪をそっと撫でた。
それだけで、十分だった。
呼吸が規則的になっていくのを確認して、俺は立ち上がった。
波打ち際に足を浸しながら、
振り返らずに──そっと、海へと戻る。
名前も、声も、知らないまま。
ただ、「もう大丈夫だ」と、胸の奥で確かに思いながら。
――――――――
Side涼太
冷たい海水が喉を焼いた。
胃の奥から何度もこみあげる水を吐き出しながら、意識は浅く、そしてどこか遠く──夢と現実の境目を漂っていた。
身体が重い。
まぶたが開かない。
けれど、確かに感じていた。
柔らかい手が、俺の額に触れたこと。
水に濡れた髪がそっと払われたこと。
誰かがすぐ近くで、俺の息を確かめるようにそばにいてくれたこと。
見えない。
けれど、その存在は、確かに“あたたかい”と感じた。
(──誰か……いる……?)
呼びたかった。
声にならない声で、名前を知らないその人を引き留めたかった。
どうか、行かないで。
このまま消えてしまわないで。
たったそれだけを願って、俺の意識は、ゆっくりと闇に沈んでいった。
――――――――次に目を開けたとき、そこは──自分の部屋だった。
見慣れた天蓋のついた寝台。
ゆるやかなカーテンの陰から朝の光が差し込んでいて、長い夢から目覚めたような気がした。
ゆっくりと上体を起こすと、すぐに付き人が駆け寄ってくる。
「涼太様……! ご無事で何よりです!」
その声に応えるように、肺が咳き込んだ。
まだ体が重たい。
けれど確かに、生きていた。
「……ここは、どうして……」
「昨夜、浜辺で倒れていた殿下を、漁に出た民が発見し、すぐに我々へ連絡を。ちょうど近隣の避難所に避難していたため、事なきを得ました」
淡々と語られる経緯に、俺の脳裏に浮かぶのは、ただひとつ。
「……そこに、誰かいなかったか?」
付き人は首を傾げる。
「いえ。浜には殿下以外、誰の姿もございませんでしたよ。足跡らしきものも波に消され、確認できませんでした」
「……そうか……」
俺はそっと目を伏せた。
胸の奥で、なにかが静かにざわめいていた。
誰だったんだ。
あの手は──あの温もりは。
あれは幻じゃない。
確かに、俺をこの命に引き戻してくれた存在だった。
名前も、姿も知らない。
けれど、もう一度……会いたい。
心の底から、そう思った。
―――――――――――
Side翔太
──また、会いたかった。
あの日、嵐の中で助けた“彼”の姿が、今もまぶたの裏に焼きついて離れない。
青白い顔、濡れた髪、触れた頬の冷たさ──それでも生きようとする鼓動が、確かに俺の胸を打った。
名前も知らない。
でも、間違いなかった。
あのとき岸辺で見た少年の面影が、彼の中に残っていた。
(生きていてくれたら……)
何度もそう願った。
そして、もし生きているのなら──もう一度、ほんの少しだけでいい。姿を見たい。
そう思って、俺は今日も海面を目指していた。
兄たちに隠れて、岩陰を抜けて、深い海を蹴り上げる。
太陽の光が、遠く水の向こうに揺れていた。
あと少し。
もう少しだけ、届きそうだった──そのとき。
「翔太!」
名前を呼ばれて、尾びれがびくりと止まった。
振り返ると、目黒兄さんがいた。
険しい顔で、俺の行き先を読み切ったように睨んでくる。
「また上に行くつもりか」
その声に、続くようにもう一人。
阿部兄さんが、少し疲れたような表情で俺の後ろに回り込む。
「翔太、お前……まだ諦めてなかったのか」
苦しそうなその声音に、胸が痛んだ。
でも、俺は何も言えなかった。
言ったところで、ふたりはまた止めるだけだとわかっていた。
「人間に関わるな」「お前はこの海に生きる者だ」──
耳が覚えてしまったくらい、何度も聞いた言葉たち。
「どうして……どうして、そんなに人間を……」
「翔太」
目黒兄さんが、低く言った。
いつもより、ずっと静かで重い声。
「この前のお前、何があった?」
「……」
「お前、海にいなかったよな。あの日の夜。嵐の中で」
息が止まりそうになった。
何か言い訳をすればいいのに、喉が動かない。
嘘をつきたくなかった。
「……助けたんだ。ひとり、人間を」
声にはならなかったけれど、胸の中でそう答えた。
けれど──兄たちは知らない。
彼がどんなふうに海の底で沈んでいたか。
どれだけ美しくて、儚かったか。
俺は、知っている。
あの瞬間、命の灯が消えそうだった彼を、抱きしめたことを。
「……お願いだから、もう上には行かないで」
阿部兄さんの声が、ゆっくりと落ちてくる。
「お前まで……いなくなるのが怖いんだよ」
俺の尾びれが、ふるえた。
ふたりの真剣なまなざしを前に、何も言えなくなって、
俺はそっと視線を落とした。
──あの日見たあの人。
あの温もり、あのまなざし。
声をかけることもできなかったけど、胸の奥に今も残っている。
会いたい。
たった一度でいいから、名前を呼んでほしい。
けれど、それは、今は叶わない。
俺はそっと、海の深くへと泳ぎ戻った。
心の中に、あの人の姿を抱えたまま──
―――――――――――
Side涼太
王宮の謁見の間は、いつもより静かだった。
父の姿が、玉座の奥でじっと俺を見据えている。
威厳に満ちたその視線は、剣よりも鋭く、盾よりも揺るぎない。
「涼太、体調が戻ったようで何よりだ」
「……はい。ご心配をおかけしました」
頭を垂れると、返事はなかった。
代わりに、書状が一通、俺の前へと差し出される。
重厚な紋章。隣国・エルディナ王国のものだった。
「来月初頭、エルディナ王女との婚姻に向けて、使節がこちらに来る」
一拍の間すら置かれない、命令のような言葉だった。
俺は一瞬だけ、息を呑んだ。
「……ご婚姻、ですか?」
「ああ。エルディナとの同盟はこの十年、揺らぎつつある。これを確かなものにするには、お前の結婚が最も効率的だ」
効率的。
国を安定させるための、最善の選択。
──そうだ。
王家に生まれた以上、いつかはこうなるとわかっていた。
「王女は年も近い。教養もある。容姿も問題はない。それに、向こうの王もお前の誠実さに信頼を寄せているようだ」
それは俺への称賛ではなく、“駒としての価値”の確認だった。
「……承知しました」
そう言った自分の声が、意外なほど冷静だったことに、どこかで驚いていた。
父は黙って頷き、すでに次の書状へと目を移している。
その背を見ながら、俺は静かに部屋を後にした。
廊下の奥、窓から差し込む光が白くてまぶしい。
でも──その光の中に、彼の姿はなかった。
(もう一度、会いたいと思った人がいたのに)
波の中で、かすかに触れた手。
額に添えられた、優しいぬくもり。
けれど、あの人が誰かを探すことはもう許されない。
俺は“王”として、国のために生きる。
──そう、決まっていた。
なのに、胸の奥が静かに軋む。
まるで、閉じ込めていた何かが、音もなくひび割れていくように。
(あの声が、また聞こえたらいいのに)
そう願ってしまったことを、自分で叱るように、
俺はまっすぐ歩いた。
誰にも知られないまま、心だけを置いて。
――――――――――王宮の庭園が、いつもより騒がしい。
赤と金の正装に身を包んだ使節団が城門を通り抜け、貴族たちの目が一斉に彼らへと向けられる。
その中心にいたのが──エルディナ王国の王女だった。
「これはこれは、皇子様。ようやくお目にかかれましたね」
第一印象は、思っていたよりずっと華やかだった。
年の近いはずの彼女は、王女という肩書きを感じさせないほど朗らかで、まっすぐにこちらを見てくる。
長い金髪が風に揺れ、薄い水色のドレスが春の光を反射してまぶしかった。
「私、こういう形式ばった場は苦手なんです。できれば……あまりじっと見ないでくださいね?」
いたずらっぽく微笑んで、彼女は一歩、俺のそばへ寄ってくる。
まわりの貴族たちのざわめきすら、どこか置いてけぼりにする空気を持っていた。
「皇子様、もしよければ……少しだけ、海辺を散歩しませんか?」
ふいにそう言われて、俺は軽く目を見開いた。
なぜ“海”なのか。
なぜ、よりによって“あの場所”なのか──そんな考えが一瞬だけよぎる。
「使節団の警護にはすでに伝えてあります。お断りされても……行きますけどね?」
冗談めかしたその言葉に、俺はわずかに苦笑する。
そう。
この王女は、わかっていて“距離を詰める”。
政略という名の縛りの中で、それでも心を繋ごうとしているのだろう。
「……わかりました。少しだけ、付き合いましょう」
俺がそう答えると、彼女の顔がぱっと明るくなった。
けれど、歩き出したその足が向かう“海岸”に、
俺の心の奥は、静かにざわめき始めていた。
(そこに、まだ……君の気配が残っていたらいいのに)
波の音。
風の匂い。
触れた頬と、あたたかい手。
心の奥にしまったはずの面影が、波に揺られてよみがえる。
その隣に、違う誰かが立っている現実に、
俺はどこか、呼吸の仕方を忘れたような感覚を覚えていた。
―――――――――砂浜を歩くたびに、足元でさらさらと音が鳴る。
波が静かに寄せては返し、海風が髪を揺らした。
並んで歩く王女は、まるでこの国の空気に溶け込んでいるかのように軽やかだった。
時折、足元の貝殻を見つけては微笑み、陽の光を浴びて、きらきらと笑う。
そんな彼女が、不意にこちらを向いた。
「皇子、体調の方は……もう万全でいらっしゃいますか?」
その問いに、俺は歩みをほんの少しだけ緩める。
あの夜のことを、誰かから聞いたのだろう。
「ええ……もう、問題ありません。ご心配、ありがとうございます」
「よかったです。海で溺れられたと……とても危険だったとか」
王女の口調は変わらず優しかった。
けれど、どこか探るような色がまじっていた。
俺は視線を海に向けた。
あの時と同じ場所。
波打ち際に、かすかに残っているような記憶。
──確かに、あの日。
俺は誰かに助けられた。
温かい手が、額に触れた。
抱きしめられるように、海の底から引き上げられた。
「……あのとき、誰かに、助けられました」
静かに言葉にすると、王女がぴたりと足を止めた。
海風が彼女の金髪をふわりと持ち上げ、表情が少しだけ曇る。
「それ──私です」
……一瞬、意味がわからなかった。
「……え?」
「そのとき、ちょうど近くの船に乗っていたのです。偶然、浜辺に打ち上げられた皇子を見つけて。ほんの少しだけ、介抱しました。すぐに騎士たちが来てくれたので……名乗る間もなく」
彼女の笑顔は柔らかく、曇り一つない。
けれど、その言葉は、俺の中にすっと入り込んではこなかった。
何かが違う。
確かに、今俺が見ているこの人ではない──そんな違和感が、胸の奥を静かにかき乱す。
あの日、あの海で聞いた声。
触れた手。
……そのすべてが、この人のものだったとは、思えなかった。
「そう……ですか」
それでも、俺は否定しなかった。
王女の言葉を、ただ受け取るしかなかった。
──だって、俺には何一つ、証明するものがない。
あの日、海の底で出会った“あの人”は。
今この隣にいる彼女では、ないという確信だけが、波の奥でさざめいていた。
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