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94 ◇馬車
哲司からプロポーズされるだなんて……雅代にとっては夢のような出来事である。
事前であれ事後であれ、温子が元の奥さんであるということを知ればかなり驚いたろうにと
思うが、その理由が性格の不一致であったなら、雅代は昔から好意を寄せていた哲司の胸へと
飛び込んだことだろう。
だが離婚理由はそんな生易しいものではなかった。
だから、自分のとった選択は間違っていないのだと、何度も自分で自分に言い聞かせ
重苦しい気持ちを宥め宥め、雅代は自宅へと帰ったのであった。
翌日からまた工場での仕事が始まった。
雅代は、なんとなく気怠さを感じたものの、今までの疲れの蓄積と精神的な
ものからきているのだろうと考えた。
しかし、哲司と会った日から10日後、突然意識不明になり工場の床に崩れ落ちてしまった。
この日はたまたま温子が待機していて、速やかに応急処置が施され北山製糸工場が持っている
馬車に雅代を乗せ、そのまま付き添って病院へと向かった。
意識の戻らない雅代を気にしつつ、温子は夫である涼のことを思った。
『うちの工場がちゃんと馬車を保有していてくれて有難いことだわ』と。
経営が芳しくないと持ちたくても持てないだろう。
涼さんが経営手腕を発揮しているからこそ、うちの工場は馬車を所有することが
できているのだ。
たくさんの荷物を積んで運ぶ時も、わざわざ知り合いの工場まで借りるために
出向かなくて済むし、今回のように急患が出た日には本当に助かる。
自分のところにあれば、それだけ早く患者を病院に運べるもの。
温子は馬車と夫とのことに思いを馳せながら、病院に着くまでの間、雅代の側で
心配そうに手を握りしめていた。
――――― シナリオ風 ―――――
〇大宮公園駅からの帰り/電車の中 夕方
(N)「哲司からのプロポーズ――雅代にとっては夢のような出来事だった。
だが、温子との離婚理由が“性格の不一致”などという生易しいものでは
ないと知った以上……選ばないという決断は間違っていない、と。
重苦しい気持ちを宥めながら、雅代は寮へと帰っていった」
〇製糸工場寮/雅代の部屋 夜
雅代、着物を畳みながら独り言。
雅代(心の声)「……これでよかったのよ。これで……」
しかし顔は曇り、手は止まる。
小さなため息。
〇北山製糸工場・数日後
機械の稼働音。
女工たちの話し声。
(N)「翌日から再び工場での日々が始まった。
身体の気怠さは、ただの疲れだと雅代は思い込もうとした。
――だが、哲司と会った日から10日後。
突然、意識を失い、工場の床に崩れ落ちた」
悲鳴、騒ぎの声。
女工たち「きゃっ、雅代さんが!」「早く誰か呼んで!」
〇工場の医務室 → 馬車
温子が駆けつける。
温子「しっかりして!……すぐに馬車を!」
女工たちや男衆たちが慌ただしく動く音。
馬車の準備。
(N)「幸い、この日は温子が待機していた。
速やかに応急処置を施し、北山製糸工場所有の馬車に雅代を乗せ、病院へ
と向かった」
馬車の車輪の音、蹄の音。
温子が座席で雅代の手を握る。
温子(心の声)
「……馬車を自前で持っているのは、本当にありがたいわ。
涼さんが工場をしっかり経営してくれているから……。
荷物の運搬にも助かるし、こうして急患を運ぶ時には命綱になる……」
温子、雅代の手を強く握りしめる。
温子「……お願い。どうか持ちこたえて……」