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雨
四月にしては、
寒い雨だった。
工場の屋根を叩く音が、
いつもより大きく聞こえる。
湿った空気。
鉄と油の匂い。
朝から、
身体が重かった。
理由は分かっている。
分かっているけど、
口には出さない。
スマートフォンは、
ロッカーに入れてある。
仕事中に触る理由はない。
それでも、
休憩の時間になると、
無意識に視線が向く。
通知は、ない。
分かっている。
すぐに返事が来るわけじゃない。
それなのに、
どこかで期待している自分がいる。
それが、
情けなかった。
作業は、
いつも通りこなす。
指示されたことはやる。
手を抜くこともしない。
ダメなことは、
ダメだと言う。
それだけだ。
評価されるほどでもなく、
注意されるほどでもない。
可もなく、
不可もない。
周りと雑談を交わすほど、
器用でもない。
かといって、
孤立するほど、
無口でもない。
気づけば、
ずっとその位置にいる。
永遠の若手。
若く見える、と言われる。
悪い気はしない。
でも、
出世の話は、
自分の前を通り過ぎていく。
それが、
今の自分だ。
昼休み。
缶コーヒーを開けながら、
スマートフォンを確認する。
やっぱり、
何もない。
雨音が、
さらに強くなる。
あの日、
送ったのは、
たった一通の文章だ。
それなのに、
こんなにも、
気持ちが引っ張られている。
仕事に戻る。
機械の音に包まれると、
少しだけ、
考えなくて済む。
定時。
外に出ると、
まだ雨が降っていた。
車に乗り込み、
エンジンをかける。
ワイパーが、
一定のリズムで動く。
そのリズムが、
やけに落ち着かない。
信号待ち。
スマートフォンを手に取る。
通知は、ない。
分かっている。
今日は来ないかもしれない。
それでも、
画面を伏せて、
助手席に置く。
見なければ、
考えなくて済む。
そう思った。
家に着くころには、
雨は弱くなっていた。
玄関のドアを開ける。
いつもの生活。
いつもの声。
ーーおかえり。
静かな妻の声。
弾けるような高い娘の声。
少しだけ胸が痛く感じた。
今日は、
まだ終わっていない。
でも、
何かが始まる気配も、
まだない。
ただ、
待っている。
――さぁ、パパとお風呂入ろうか。
娘は嬉しそうに、
小さく跳ねた。
その手を引きながら、
もう一方の手で、
スマートフォンを掴む。
ポケットにしまう。
理由はない。
必要もない。
ただ、
手放せなかった。
脱衣所の白い灯り。
曇った鏡。
服を脱がせながら、
ポケットの重みを、
何度も確かめる。
通知は、
鳴らない。
それでも、
水音の合間に、
聞こえた気がしてしまう。
耳鳴りみたいな期待。
娘の笑い声が、
浴室に響く。
その声に応えながら、
僕の一部は、
まだ外に残っている。
湯気の向こうで、
何かを待ったまま。
それだけで、
胸の奥が、
静かに、確実に、
削れて流れていった。