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打っては消して
電車は、
いつもより混んでいた。
吊り革につかまりながら、
菜月はスマートフォンを見下ろす。
返事は、
もう来ている。
挨拶だけ。
それ以上は、
何も書いていない。
質問もない。
探る気配もない。
だからこそ、
返しづらかった。
これで終わらせるなら、
今だとも思う。
返信しなければ、
自然に消えていく関係。
このアプリでは、
よくあることだ。
画面を閉じる。
また開く。
入力欄に、
カーソルが点滅している。
打つ。
消す。
打つ。
また消す。
大した文章じゃない。
それなのに、
決まらない。
挨拶だけ返すか。
それとも、
一言、何か添えるか。
質問をすれば、
会話は続く。
でも、
続けていいのかどうかが、
分からない。
「返事、ありがとうございます」
消す。
「メッセージ、嬉しかったです」
消す。
嬉しいと伝えたら、
調子に乗る人もいる。
――じゃあ会える?
――ワンチャンある?
そんな言葉が、
頭の中に先回りして浮かぶ。
それが嫌で、
距離を保ちたかった。
でも、
何も返さなければ、
この人は、
ただ静かにいなくなる。
それもまた、
少しだけ惜しかった。
ふと、
隣に立つ男の人の視線に気づく。
画面を覗かれたわけじゃない。
ただ、
目に入っただけ。
それでも、
スマートフォンを持つ手が、
わずかに緊張する。
この人は、
上手くいっているんだろうか。
家庭は。
仕事は。
それとも、
自分と同じで、
満たされない何かを抱えて、
生きているのだろうか。
不倫とか、
浮気とか。
そんな言葉が、
勝手に浮かんでは消える。
分からない。
分からないから、
怖い。
電車が揺れる。
吊り革が、
きしりと音を立てた。
もう一度、
画面を見る。
大和の名前。
そこに、
余計な感情を重ねないように、
深く息を吸う。
短くていい。
丁寧でいい。
期待も、
喜びも、
押し付けない。
菜月は、
ゆっくりと文字を打った。
挨拶。
それと、
ほんの一文。
書き終えて、
しばらく指を止める。
送る前の、
この一瞬が、
一番静かだった。
――送信。
電車は、
次の駅に滑り込む。
扉が開き、
人の波が動き出す。
何も変わらない日常。
それでも、
菜月の胸の奥で、
小さな音がした。
弾けるような、
堕ちていくような。
どちらなのかは、
まだ分からない。
ただ、
嫌じゃない。
むしろ、
静かに心地いい。
埋めたはずの場所で、
何かが、
そっと鳴った気がした。