「じゃあ、まどかってことでいいか?」
田島がそう言うと、彼女は焚き火の残り灰を見つめながら肩をすくめた。
「自分で言ったんだけどね。」
その口調はどこか照れくさく、でも少し誇らしげだった。
火はすっかり消えていた。朝の山は静かで、空気は冷たく澄んでいる。鳥の声も、風の音も、どこか遠くに感じる。地面には夜露が残っていて、靴の底がしっとりと濡れた。
「お腹すいた……」
ぽつりと落ちたその言葉に、田島は「ああ、そう言えば朝飯食ってなかったな……」とつぶやき、焚き火の準備に取りかかった。
田島は薪を拾い集め、焚き火台に組み直す。火打石で火を起こすと、ぱちぱちと音がして煙が立ち上る。まどかは焚き火のそばにしゃがみ込み、じっと田島の手元を見ていた。彼の動きに合わせて、まどかの目が静かに揺れる。
「スーパーで買ったウィンナーと卵しかないけど、いいか?」
「うん。なんでもいい」
田島はリュックからフライパンを取り出し、油を垂らした。ウィンナーを並べると、じゅう、と音がして香ばしい匂いが広がった。まどかはその匂いに反応するように、目を細めて深く息を吸い込んだ。
「スーパーのウィンナーなのに、外で食うとなんかうまく感じるよな」
田島は笑いながら言った。まどかは黙って頷いたが、視線はフライパンではなく、田島の腕に向いていた。
じっと、じわじわと、田島の皮膚をなぞるように見つめている。
口元がわずかに開き、唇の端からよだれがつっと垂れた。
その動きは、無意識のようでいて、どこか演技めいてもいた。
「……そんなに腹減ってたのか?」
まどかは黙ったまま、相変わらず田島の腕を見つめている。
「えっ!?俺なの?」
田島は思わず一歩引きながら、自分の腕を背中に隠した。
まどかはわざとらしく田島の腕を目で追い、いたずらっぽく笑った。
「冗談だってば。そんな顔しないでよ。ちょっとからかっただけ」
「脅かすなよ……」
「脅してないよ。見てただけ」
「俺を?」
「……うん。ちょっとだけ、美味しそう」
田島は腕をさすりながら、じりじりと距離を取った。
「いやいや、ちょっとだけって何!?やっぱゾンビって人食べるんじゃねぇの!?」
まどかは目を細めて、焚き火の炎をちらりと見た。
「食べるかどうかは……状況によるかもね」
「状況によるって何!?俺、今その“状況”に入ってる!?」
まどかはくすっと笑った。
「冗談だってば。たぶん」
「“たぶん”って言うな!“絶対食べない”って言ってくれ!」
「絶対とは言えないけど……今はウィンナーがあるし。」
田島は皿を握りしめた。
「ウィンナーが命を救う時代かよ……」
田島は苦笑しながら、フライパンを火から下ろした。皿に盛り付けて、まどかに差し出す。ウィンナーは香ばしく焼け、目玉焼きは黄身がとろりと流れた。
ふたりは焚き火のそばに座り、朝食を分け合った。まどかは一口食べて、しばらく黙っていた。
「うまいか?」
「味は……分からない。でも、空腹は満たされる」
その言葉に、田島は少しだけ胸が痛んだ。味覚がないのか、それとも感覚が鈍っているのか。彼女が人間なのか、ゾンビなのか──その境界は、まだ曖昧だった。
「なあ……ゾンビって、噛まれたら感染するんだっけ?」
田島は、冗談めかして言ったつもりだった。だが、まどかはすぐには答えなかった。
「……そういう設定、多いよね」
「設定?」
「うん。映画とかゲームとか。現実じゃない。たぶん」
「“たぶん”ってなんだよ」
「だって、わたしもよく分かんないし。ゾンビって自覚あるわけじゃないし」
「でも、俺を見てよだれ垂らしてたじゃん」
「それは……おいしそうだったから」
「ウィンナーが?」
「……ううん。田島が」
田島は思わず皿を持つ手を止めた。焚き火の煙が目に染みる。
まどかはウィンナーを口に運びながら、にやりと笑った。
「うん。たぶん」
その笑顔は、どこか人間らしくて、どこか不自然だった。
田島は、まどかの横顔をちらりと見た。彼女の髪が朝の光を受けて、少しだけ透けて見えた。
「お腹も満たされたし……街に戻ろうか」
田島は立ち上がり、テントをたたみ始めた。まどかは黙ってそれを見ていた。
「街?」
「うん。まどか、お前が誰なのか……調べてみようと思って」
まどかは少しだけ目を見開いた。
「わたしが誰か、分かるの?」
「分かるかどうかは分からない。でも、探してみる価値はあるだろ」
まどかはしばらく黙っていたが、やがて小さくうなずいた。
「うん。行こう」
田島は荷物を背負い、まどかと並んでテントのすぐそばに停めてあった車へ向かった。
助手席のドアを開けると、まどかは一瞬ためらったように見えたが、すっと乗り込んだ。
田島が運転席に座り、エンジンをかける。静かな音が山の空気を切り裂いた。
背後には、焚き火の残り香と、焼けたウィンナーの匂いが漂っていた。
そして、まどかの正体に少しだけ近づけるかもしれないという、かすかな希望も。