コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
「おはよう、ハナちゃん。来てくれたんですね。昨夕ここのモーニングをお勧めしておいて本当に良かった」
コーヒーカップを握りしめてテーブルに伏せるように隠れていた私に、
「あれ、実は僕にとってもある種の賭けだったんですけど……保険にギフトカードを付けたのが功を奏しましたかね」
付け加えるように、にこやかな声が降ってくる。
ひえーっ。
やっぱり見逃しては頂けないみたいですし、今の口ぶり!
何だか私を罠にハメたっぽく聞こえるんですけど……気のせいですかね!?
しかも……〝春凪ちゃん〟って!
いつもは〝柴田さん〟なのに。何の罰ゲームが開始されているのですかっ!?
「おはよ、……ございます。――お、りた、課長……」
名指しにされては無視するわけにもいかず、観念して恐る恐る顔を上げて声の主の名前をつぶやいたら、織田課長ってば図々しくも私のすぐ横の席に腰掛けてきて。
「柴田春凪さん。ここでお会いできたのも何かのご縁です。折り入って頼みたいことがあるんですが、聞いていただけますか?」
って柔らかく微笑むの。
さっき、さも私をここへ〝誘導した〟ようなことを言った口で、〝ここで会えたのも何かのご縁〟とか、さすがにわざとらしすぎませんか?
でも、上司に名指し――しかもフルネーム!――でこんな風に尋ねられて、ペーペーの私が「お断りします」なんて言えるわけがない。
私は罠に掛かりにいくのを承知で、「なんで……しょうか?」と問いかけた。
「いやね、大したことじゃないんです、柴田さん。ほんの束の間で構いませんので、あちらのテーブルにいる女性の前で、僕の恋人のフリをして頂けませんか?」
耳元に唇を寄せられて。
今度は会社でのように〝柴田さん〟と計算高く呼びかけられた私は、安定の低音イケボにゾクリと身体を震わせた。
「はっ、はいっ! かしこまりました……!」
たかだか5日。されど5日。
その間にみっちり織田課長にこき使われ慣れた私という人間は、業務時の癖で彼から〝頼み事〟をされると、つい条件反射で快諾してしまう。
そうして、周りの喧騒にハッと我にかえってから、今日は休日で仕事中じゃなかった!と気が付いた。
あ、これ、別に断っても良いやつだ。
そう思ったと同時。
所でいま、私は織田課長から何の頼み事をされたんでしたっけ?と冷静になる。
なってから、今更のように〝恋人〟というワードにぶち当たって、心底驚いた。
「こ、恋びっ!?」
思わず大きな声で「えーっ!?」って叫びそうになって、すかさず織田課長の大きな手で口を塞がれてしまう。
「柴田さん、とりあえず一回落ち着きましょうか」
耳元でそう宥めるように囁かれたけれど、ごめんなさい。私、今、それどころじゃないのですっ!
だってだってだって……! どうしようっ!
私の、ハンバーガーソースが付いたままかもしれない意地汚い唇にっ。
織田課長の男らしくも繊細な手のひらが乗っかってるんですよーっ!?
神様の最高傑作みたいな手指に対して失礼じゃないですか!
バチが当たりそうなんですがっ。
それだけでも堪らないのに、ジタバタしながら無意識に空気を吸い込んだ私の鼻腔に、マリン系のあの香りがふわりと入り込んできたからさぁ大変。
余りのことにぐるぐると目が回りそうになって、諸々臨界点に達した私は見事キャパオーバー。
結果、精魂尽き果てたようにプシュ〜ッと力を失ってうなだれた。
それを、強く口を押さえすぎて酸欠にさせてしまったと勘違いしたらしい織田課長が、慌てて手を離して背中をさすってくれて。
「柴田さん、落ち着いて? ゆっくり息をしましょう」
とか、本当勘弁してください。
ああ、お願いですっ!
後生ですからこれ以上私に触れるのはおやめくださいっ。
ごっ、御無体なっ、お代官様ぁーっ!
などと時代劇の町娘みたいなセリフが頭の中を駆け抜ける程度には私、自分が思いっきりパニック状態なのだと頭の片隅で自認する。
「柴田さん、本当に大丈夫ですかっ?」
なのに、なのに――。
ついには織田課長に両頬を挟まれて、真っ正面から間近に顔を近付けられてしまった。
これがトドメにならないわけがない!
私は完全に舞い上がってしまった。
「おっ、……」
耐えきれずに小さく落とした声に、織田課長が固唾を飲んで「お?」と先を促してきて。
私は半狂乱な心のままに、
「おっ、織田課長のお顔とお声っ! 好みのどストライクすぎて辛いんですっ! お願いですから離れてくださいっ! 本当に死んでしまいますぅ〜っ!」
バカみたいにストレートすぎる告白をしてしまった。
ああ、これ。完全に詰みました……よ、ね……?
一瞬の間の後、織田課長に「えっ?」と問い返されて、「あのっ、私っ!」って口にして、何とか己の失態をカバーしようと模索する。
でも、もう後の祭り。
発した言葉は取り消せないもの。
どう考えてもゲームオーバーだよぅ。
「あ、あのっ、わ、忘れてください……っ」
仕方なくそう懇願してみたけれど、通用するはずがない。
だってこの人、多分ドSだもの。
「なんだ、ハナちゃん。キミは僕のことが好きだったんですね。だったらさっきの話、何の問題もないじゃないですか」
心配して損しました、とか何とかつぶやきながら。
織田課長が心底ホッとしたようにククッと笑って、
「キミがろくでもない男と別れたばかりでフリーなのは織り込み済みです。――となれば、これほどこの役にピッタリとハマる適任者はいませんね」
ニコッと。
仕事中、お客さんを前に見せる極上のキラースマイルを向けられて続けられる。
「春凪ちゃんが入社した日、僕はキミの秘密を握ってるって話したでしょう?」
そう付け加えられた私は、その言葉の余りの破壊力に固まってしまった。
いつの間にかまた、「柴田さん」が「春凪ちゃん」になっていることにも抗議できないくらい心臓がバクバクで。
「春凪ちゃん?」
「ま、前に織田課長がおっしゃってらした私の秘密って……」
顔を見詰めてしまったら、何も問いかけられない気がして伏せ目がちにつぶやいたら、
「ん? 彼氏にフラれた狙い目な女の子ってことですけど……」
さも何でもないことみたいにそう返されて、陥没乳首じゃなかった!?って思った私は、ホッとして肩の力を抜いた。
途端、織田課長にクスリと笑われて、
「もしかして他の情報を振りかざされた方がよかったですか?」
言うなり、胸元にちらりと視線を投げかけられる。
い、今のっ! 一旦安心させといて突き落としにかかりましたよね!? 絶対わざとでしょう!?
やっぱりこの人は、超絶腹黒なドS男みたいです!
***
「とりあえず、それ。食べ終えたらあちらの席に、ね?」
来てもらえますか?とかそういうのを一切付けないあたり、ズルイと思う。
この人、私が断れないって知ってるんだ。
語尾に付けられた「ね?」が全てを物語っているようで、すごく悔しい。
けど、行くしかないじゃない。
織田課長はまるで決定事項のように私に「お待ちしています」と念押しをして立ち上がりかけてから、「――あ、そうだ」と、何かを思い出したように再度座り直した。
「春凪ちゃん、あちらの席では僕のこと、名前で呼んでもらっていいですか?」
恋人設定なのに織田課長はおかしいでしょう?と付け足されて、確かにその通りなのだけれど、と思う。
それもあって、さっきからこの人は予行練習のつもりで私を春凪の方で呼んでいるのかしら。
さすがというか何というか。
そういう割り切りの良さ、本当すごいなって思います。
「でもっ」
私の方は、さすがにいきなり呼び方を変えろと言われても、織田課長以外の呼び方なんて畏れ多くて出来そうにありません。
「何故? ちょっと呼び方を変えるぐらいどうってことないでしょう? ――あ。まさか柴田さん。僕の下の名前を覚えていないとか?」
春凪ちゃん、が柴田さんになってしまったのにも、仕事をにおわせて、私を追い詰める意図がある気がしてしまう。
織田課長の場合、全ての言動に「たまたま」とか「うっかり」なんて存在していなくて、全て計算ずくに思えるんだもの。
初日に自己紹介したのに上司の名前を記憶してないなんて有り得ませんからね?と言わんばかりの冷ややかな声音に、私はいくら何でも好みのどストライクさまの御尊名を忘れるとかないですから!と腹立たしく思う。
「お、覚えてますっ! 課長の下のお名前は宗親さんですっ!」
それで、思わず勢いこんで言ったら、「よく出来ました。では春凪ちゃん。くれぐれもそれでお願いしますね?」と極上スマイルとともにふんわり頭を撫でられた。
その余りにスマートな流れに、わざと言うように仕向けられたのだと気が付いて、ハッとする。
それに! いきなり頭を撫でるなんて! こっ、これはセクハラというやつではないですかっ?
思いながらも心の奥底では分かっているの。
一目惚れの彼にこんな風に触れられることが、ご褒美にしか感じられていないこと。
***
上司との約束とあっては、いくらプライベートと言ってもなかなか反故にすることが出来ないもので。
私はプレートに載った残りの食べ物をかき込むように急いで食べた。
あーん。これじゃ、仕事してる時と変わらないじゃない。
せっかくのお休みの日。もっとじっくり味わってご飯、食べたかったなぁ。
そんなことを頭の片隅で思いながらも、逆にいつも通り、時間に追われたような食べ方をしたおかげで頭がビジネスモードにシフトした。
***
「あらあらあらぁ〜。随分可愛らしいお嬢さんじゃない」
織田課長とお連れ様――恐らく先ほど盗み聞きした感じからすると課長のお母様?――の待つ席に出向く頃にはある程度腹が据わっていた。
織田課長からの〝お願い事〟をキッチリやり遂げて、恩を売っておこう。
そうすれば、私の恥ずかしい秘密のこともチャラにしてもらえるかも知れない。
そんな小狡い計算までしっかり出来てしまえる程度には、私、したたかな気持ちでこの場に臨めています。
「遅くなって申し訳ありません。織……宗親さんとお付き合いさせていただいています、柴田春凪と申します」