テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
真帆の次の受診は、妊娠十二週に入った頃だった。
出血は止まり、胎児の発育も順調。
ただ、以前の化学流産への不安が強いため、初期胎児スクリーニングを希望した。
超音波検査室で待っていたのは、臨床検査技師の榊原慧だった。
東央大学医学部附属病院の周産期センターで、胎児超音波を専門にしている。海外の大学院で医用超音波の博士号を取得し、英国の胎児医療施設で実務経験を積んだ後、半年前に帰国した。
院内では有名な人。
腕がいいことと、愛想がないことで。
「本日は胎児の大きさ、頸部浮腫、鼻骨、血流を確認します。最終的な説明は久世先生から行います」
真帆へ淡々と説明した。穏やかな声だが、笑顔はほとんどない。
「よろしくお願いします。千紘も一緒ですよね?」
「ええ。私も見るわ」
私は真帆の横に立ち、慧がプローブを当てる画面を見た。
胎児は羊水の中で小さく体を動かしている。頭殿長は週数相当。心拍も規則的だ。
「今、手を動かしましたよ」
慧が画面を示すと、真帆が目を細めた。
「かわいい……」
その声に重なるように、遼介の言葉が蘇った。
『心拍、ちゃんと見えたのか?』
深夜の通知。真帆の慌てた手。父親より先に妊娠を知っている夫。
慧が頸部を計測しようと角度を変える。私は画面上の胎児ではなく、真帆の腹部を見ていた。
「久世先生」
呼ばれて顔を上げる。
「所見をお願いします」
「え?」
「今、確認した項目です」
私は答えられなかった。見ていなかったからだ。
慧の手が止まった。
「代わってください」
「もう一度見れば分かります」
「今の先生には任せられません」
低い声に、真帆が不安そうに私たちを見る。
「千紘、何か悪いの?」
「違う。ごめんね、所見に問題はないから」
私はすぐに表情を戻した。慧はプローブを置かず、視線だけを私へ向ける。
「患者を診るのに感情を持ち込むのは最低です。続けるなら、医師ではなく患者を見てください」
頬が熱くなった。
技師から指摘されたことではない。患者である真帆の前で言われたことに腹が立った。
しかし、反論できない。
私は今、胎児を見ていなかった。
「……続けてください。私は一度外します」
検査室を出る。扉が閉じると、冷房の効いた廊下なのに背中へ汗が滲んだ。
数分後、慧が出てきた。
「計測は終了しました。明らかな異常所見はありません」
「ありがとうございます」
私はカルテを受け取ったあと、声を落とした。
「さっきの言い方、患者の前でする必要がありましたか」
「ありました」
「どうして」
「先生が、自分から降りなかったからです」
「一瞬、集中が切れただけです」
「一瞬で見落とすことがあります」
言っていることは正しい。
正しいからこそ、腹が立った。今の私には、素直に「そのとおりです」なんて言える余裕がなかった。
「私は医師です。自分の状態くらい判断できます」
「判断できていなかったから言いました」
顔色一つ変えない。
「家庭の事情があるなら、担当を外れる選択もできます。診ないことは逃げではありません。無理に診続けて患者へ負担を負わせる方が、よほど無責任です」
「家庭の事情なんて、あなたには関係ないでしょう」
「患者に影響が出た時点で、僕の仕事にも関係します」
彼を睨んだ。
それ以上何も言わず、次の検査の準備へ戻る。
診察室で真帆へ結果を説明する間は、完全に医師へ戻った。
「初期スクリーニングで分かる範囲に大きな問題はないよ。ただ、これは病気がないことを保証する検査じゃない。必要なら、出生前検査についても説明する」
「千紘、さっきはどうしたの?」
「少し寝不足だっただけ。心配させてごめん」
「榊原さん、怖い人だね」
「腕は確かよ」
私は短く答えた。
今回の検査は、妊娠十二週の初期胎児スクリーニングだった。最終的な診断を下すのは医師だが、胎児超音波を専門とする慧の画像技術は、院内でも高く評価されている。
彼は英国の大学院で胎児心臓と医用超音波を研究し、博士号を取得している。帰国後、東央大学病院へ招かれたばかりだ。医師ではないという理由で彼を軽く扱う者もいるが、慧は肩書きで張り合わない。必要な画像を撮り、疑わしい所見があれば医師へ明確に告げる。それだけで黙らせてきた人だった。
検査を交代したあと、慧の手は迷わなかった。胎児の向きが変わるのを待ち、角度を変え、必要な断面を一つずつ記録する。
「鼻骨を確認します。頸部の計測も行います」
「赤ちゃん、何か悪いんですか?」
真帆の声が強張る。画面から目を離さず答えた。
「異常があると決まったわけではありません。今の週数で確認できる指標を、順番に見ています」
過剰に安心させず、不安だけを残しもしない。私が最初に彼を評価したのは、その説明だった。
検査後、私は廊下へ出た慧を追った。
「榊原さんは、誰にでもああなんですか」
「必要なら」
「嫌われますよ」
「患者の不利益を黙認して好かれるよりはましです」
彼はそのまま検査室へ戻った。
医局へ戻ると、同僚の医師が苦笑した。
「榊原さんに止められた?」
「見ていたんですか」
「廊下まで声が聞こえた。あの人、教授にも同じ調子だから」
「協調性がないとは言われないんでしょうか」
「言われてる。でも、難しい所見を何度も拾ってるから、誰も外せない」
私は机へ座り、真帆の検査結果を確認した。記録された画像はどれも鮮明で、計測にも過不足がない。悔しいほど、慧の判断は正しかった。
そこへ遼介からメッセージが届いた。
『今日の検査、何時に終わる?』
私の勤務について聞いているのかと思い、『十七時頃』と返す。
すぐに返信が来た。
『真帆ちゃんの方』
画面を見つめたまま、息が止まった。私は今日の検査時間を、遼介へ一度も話していない。
その日の夕方、慧から検査画像の確認依頼が届いた。所見の根拠が簡潔に添えられている。私が感情を乱したことには一言も触れていない。
画像を確認し、問題がないと返信する。
『了解しました。次回、水野さんの検査担当は変更しますか』
私はしばらく画面を見つめた。
『主治医は別の医師へ相談します。検査は正式な指示が出るまで通常通りで』
『承知しました』
それだけ。
私の家庭事情を尋ねず、患者への影響だけを確認する。その距離の取り方が腹立たしく、同時にありがたかった。
検査を終えた真帆が会計へ向かったあと、看護師が私を呼び止めた。
「久世先生、水野さんから預かったものです」
渡されたのは、小さな封筒。
中には真帆の胎児の超音波写真が二枚入っている。一枚は航平へ渡すものだろう。
もう一枚の裏には、丸みのある字で短く書かれていた。
『遼介さんへ。私たちの赤ちゃん、元気でした』
写真を持つ指先から、血の気が引いた。
白波 灯
219
鬼霧宗作
303
コメント
1件
うわ〜今回もすごかった…!! 検査室での千紘の動揺と慧の冷静さの対比、めっちゃリアルでゾクゾクした😭💥 妊婦さんの前で「代われ」って言い切る慧、めちゃくちゃ怖かったけどプロだな…と思った。最後の写真の裏書きで一気に空気変わるところ、心臓バクバクしたよ…!!! 次回も絶対読む!!🌸