コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
ステージの照明が落ち、客席のざわめきがゆっくりと遠ざかっていく。
熱を帯びた空気がまだそこかしこに残っているようで、床に伝う足の裏がじんわりと温かかった。
耳に残るのは、観客が一斉に差し出した歓声の余韻――。
手を振る音、泣き声、名前を呼ぶ声。それらすべてが混ざり合って、まるで風のようにケビンたちの背中を押していた。
それでも、スポットライトの束がふっと消えた瞬間、会場は別の顔を見せる。
さっきまで自分たちを照らしていた眩しすぎる光がなくなったあとに訪れる静けさ。
それは、まるで長い夢から覚める瞬間のようだった。
だけど――その夢は確かに現実だった。
汗と鼓動と、確かな手応えが、今も胸の奥に残っている。
舞台袖を抜けて、控室の扉を開けると、冷房のひんやりとした風が熱を帯びた肌を撫でていく。
その温度差に、ふたりは思わず同時に息をついた。
史記はソファへと崩れるように倒れ込み、タオルを手に額の汗を乱雑にぬぐった。
シャツの背中はぐっしょりと濡れていて、舞台上の緊張と興奮の名残を感じさせる。
呼吸はまだ浅く、喉も乾いていたが、それでも満ち足りた何かが全身に宿っていた。
隣では、ケビンが静かに水のボトルを手に取り、口元を濡らす。
細く光る汗がこめかみを伝い、彼の輪郭を濡らしていた。
まるでステージの残像が、その体にだけ残っているかのように。
史記はタオル越しにケビンをちらりと見て、にやっと笑う。
「今日のラストの高音、やばかったよ。ファン、絶対泣いてた」
その声に、ケビンは口元を緩め、ペットボトルのキャップを閉めた。
「君のターン、完璧だった。……見とれて歌詞飛びそうになった」
史記は目を見開いたあと、すぐに笑った。
驚きと照れが入り混じったような、子どもみたいな笑顔だった。
「マジ?……嬉しいけど、それダメなやつじゃん」
ふたりは、どちらからともなく笑い出す。
それは肩の力が抜けた、自然な、だけど深い笑い。
まだアイドルにもなっていなかった「あの頃」――
ピアノ室で不器用に会話を始めたふたりには、なかったものだった。
あの距離感も、すれ違いも、緊張も。
全部が、今日のこのステージ、そしてこの笑顔に繋がっていたのかもしれない。
ふと、史記がそっと手を伸ばし、ケビンの手を握る。
その手は、さっきまでライトの熱を浴びていたせいか、まだ少し火照っていた。
指先が少し震えていたけれど、その握り方には確かな意志があった。
「……あの頃、君の隣に立てる日が来るなんて、思ってなかった」
その声は小さくて、それでも心の奥まで届くようだった。
震えていたのは声だけじゃなかった。
過去の不安や、積み重ねた日々の記憶が、その一言に詰まっていた。
ケビンは視線を落とし、その手を強く握り返す。
喉の奥で何かが詰まりかける。だけど、ちゃんと言葉にしたかった。
「俺は……ずっと、こうなりたかったよ」
あの頃の自分は、臆病だった。
人前に立つことも、誰かに気持ちを預けることも。
だけど、それでも音楽を、そして君を、諦めなかった。
傷ついた日々も、ひとりきりの夜も。
誰にも言えずに押し込めた感情も。
その全部を越えて、今、確かに隣にいる。
「君と、隣にいる。今この光の中で。それが……俺の答えだった」
史記は何も言わなかった。
ただその手を離さず、視線をそらさず、ゆっくりとうなずいた。
静寂が、優しくふたりを包む。
部屋の窓の外では、夜の空気が少しずつ冷えてきていた。
高層ビルの隙間から見えるネオンが、まるで今日の成功を祝福するかのようにゆらめいている。
ステージの熱が、ゆっくりと静けさへと変わっていく中で――
それでもふたりの手の中には、まだ確かな熱が残っていた。
未来のことはわからない。
でも、今だけは、揺るぎなく言える。
この隣に、君がいること。
それが、何よりの奇跡だった。