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第6話:託された祈り
テムズ川の湿った空気が、アランの肌にまとわりつく。
肺の奥まで霧が浸食してくるような不快感。
甲板に立つウィリアムは、重力を無視したような足取りでアランの懐へと踏み込み、その冷たい指先をアランの頬へと滑らせた。
「変異が進んできたね、アラン。いつか、このGSウイルスの素晴らしさにアランも気付くよ」
耳元で囁かれた甘い毒のような言葉が、引き金だった。
アランの視界から、夜のロンドンの景色が急速に剥がれ落ちていく。
霧の白さは、眩暈がするほど無機質な、研究所の白い壁の色へと変貌した。
耳の奥で、不快な泡の音が響く。
アランは今、ロンドンの甲板ではなく、一年前の冷たい緑色の液体の中にいた。
全裸のまま、無数の管に肉体を繋がれ、硝子の円筒に閉じ込められた「検体」。
酸素マスク越しに漂う、鼻を突く薬品の匂い。
硝子越しに見えるのは、薄笑いを浮かべる父、エドワード・ヒューストンの歪んだ顔。
父の眼鏡が室内の灯を反射し、その瞳を隠している。
『お前は、私の最高傑作(マスターピース)になることが、私の唯一の祈りだ、アラン』
自分は人間ではない。誰かの「欲望」を満たすための、ただの材料に過ぎないのだ。
底知れない自己の喪失。魂が摩耗していく音。
「……ぁ、あ……っ!」
アランの瞳に、激しい拒絶の光が宿る。
「触るな……ッ!!」
喉を引き裂くような叫びと共に、アランは右腕を振り抜いた。
膨張した黒金色の筋繊維が、意思を持つ獣のように唸りを上げ、ウィリアムの手を烈火のごとく振り払う。
「……ふふ。いい反応だね、アラン。暴力的で、それでいて繊細な……美しいよ」
ウィリアムは、振り払われた自らの手を眺め、何事もなかったかのように微笑む。
「また会えるのを楽しみにしてるよ……。じゃあね、アラン」
翻った白銀のコートの裾が霧に溶け、ウィリアムの姿は闇へと消えていった。
*
鉄のハッチが叩きつけられる鋭い音が、静寂を切り裂く。
「アラン! 大丈夫なの!?」
飛び出してきたのはリーザだった。背後には、険しい表情で銃を握りしめたギリアムが続いている。
アランは右腕の「怪物」を必死に抑え込みながら、霧の中に立ち尽くしていた。
駆け寄ったリーザが肩を抱こうとするが、アランはその手を弱々しく、けれど明確な拒絶を持って退ける。
「……触るな。危ないから、俺に近寄るな……っ」
「ひどい熱……。アラン、何があったの?」
リーザの問いに答える余裕はなかった。
アランの視界は、まだ過去の記憶と現在の霧の間で揺れている。
ギリアムは周囲の霧を鋭く睨みつけた後、低く唸るような声を出した。
「『白銀のストリエイター』か。あの野郎、ここまで嗅ぎつけやがったか」
ギリアムの視線がアランの右腕に落ちる。
だが、そこには科学者たちの狂気も観察もなく、ただ一人の少年を案じる、不器用な男の憂いがあった。
「アラン、戻るぞ。ここに立ち尽くしてたって、霧に飲まれるだけだ」
*
その夜。ノーチラス号の船内は、死んだように静まり返っていた。
アランは自室で、震える指先を抑え込みながら、バッグに最低限の衣類とナイフを詰め込んでいた。
感情を殺し、機械的に作業を進める。
(俺がここにいたら、二人があの怪物に狙われる……。俺が、二人を壊してしまう)
アランは、いつも自分の熱を測り、薬を打ってくれたリーザの温かな指先を思い出した。
彼女の三つ編みが揺れるたびに感じる、ささやかな日常の平穏。
それを奪う権利は、自分にはない。
アランはリーザの部屋のドアの前で、一瞬だけ足を止めた。
この扉の向こうにいる彼女に、どれだけ救われてきただろうか。
本当なら、その温もりに縋って泣き叫びたかった。
けれど、愛おしさが募るほどに、「守らなくてはいけない」という決意が、アランの背中を押した。
ギリアムの部屋の前を通り過ぎる際、アランはもう一度だけ強くバッグを握りしめた。
扉の向こうからは、静かな呼吸音が聞こえてくる。
アランは甲板へのハッチを押し開けた。
外は、さらに深まった霧がすべてを白く塗り潰している。
船を降り、一度だけ振り返って、アランは消え入りそうな声で呟いた。
「……ごめん。リーザ、ギリアム」
アランは一度も振り返ることなく、闇が支配するロンドンの街へと駆け出した。
*
街外れの、細い路地裏。
アランは湿ったレンガの壁に背を預け、荒い呼吸を整えていた。
震える手でバッグを漁り、中身を確認しようとした時、指先に硬い感触が触れた。
「……なんだ、これ」
布を解くと、中から現れたのは、数本のガラス瓶。
アランを人間として繋ぎ止めるための薬液、『マザーズ・クライ』の予備。
正式なラベルのないその瓶は、ギリアムがどこからか命懸けで工面してきたものだ。
そして、その瓶の隙間に、乱暴に千切られた一枚の羊皮紙が挟まっていた。
震える手でそれを広げる。
そこには、ギリアムの殴り書きのような力強い筆跡で、たった一言だけ記されていた。
『死ぬなよ』
「…………っ、ぁ」
アランの視界が、急激に滲んだ。
父の「祈り」は、彼を完璧な怪物にすることだった。
兄の「祈り」は、彼が異形を受け入れることだった。
だが、不器用ながらも自分を「人間」として扱ってくれた二人がアランに「託した祈り」は――ただ、生きてほしいという願いだった。
アランは羊皮紙を胸に抱き、声を殺して泣き続けた。
冷たい霧に包まれたロンドンの片隅で、彼を繋ぎ止めるのは、もう父の呪いではなかった。
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