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2人ともお似合いだね、
付き合い始めてからも、世界が劇的に変わったわけじゃなかった。
朝はちゃんと眠くて、
仕事や学校は相変わらず忙しくて、
君は今も笑顔が上手だった。
でも、違うところが一つだけあった。
君は、僕の前では少しだけ「上手じゃない顔」を見せるようになった。
「今日さ、ちょっと失敗して」
そう言って、君はソファに沈み込む。
以前なら絶対に「大丈夫」で終わらせていた話。
「それで?」
と聞くと、君は少し考えてから続ける。
「……正直、へこんだ」
その言葉が出てくるまでに、君は何度も息を整えていた。
それが分かるから、僕は何も急かさない。
君は、ゆっくり強がりを手放していく途中だった。
ある雨の日。
傘を持つ手が濡れるほどの土砂降りで、君は僕の部屋に逃げ込んできた。
「びしょびしょだ」
「大丈夫、すぐ乾く」
そう言いながらも、君は少し震えていた。
タオルを渡すと、君はそれを受け取って、ふと不思議そうに僕を見る。
「ねえ」
「なに?」
「そういえばさ」
君はタオル越しに髪を押さえながら言った。
「私、あなたの名前、ちゃんと聞いたことない」
胸が、静かに鳴った。
付き合って、何度も一緒にいて、
呼び合う必要がない距離に、自然となっていた。
君は「ねえ」とか「あなた」とか、
僕は「君」としか呼ばなかった。
「今さら?」
そう言うと、君は少し笑った。
「今さら、だから聞きたい」
雨音が、部屋を満たしていた。
逃げ道みたいに、ずっと続く音。
僕は、少しだけ視線を落とした。
名前を言うのが怖いわけじゃない。
ただ、名前を渡すって、思っていたより重かった。
「……呼ぶ?」
「呼びたい」
即答だった。
その真っ直ぐさに、観念する。
「——○○」
僕は、初めて君の前で、自分の名前を口にした。
短くて、どこにでもある名前。
でも、その瞬間だけは、特別だった。
君は、一度その名前を心の中で転がすみたいに黙って、
それから、小さく呼んだ。
「○○」
喉が、ひりっとした。
「……変な感じ」
「なにが?」
「名前で呼ぶの」
照れたみたいに視線を逸らす君が、ひどく可愛かった。
「でも」
もう一度、今度は少しはっきり。
「○○が、私の前にいるって、ちゃんと実感する」
その言葉に、胸がいっぱいになる。
「ねえ」
今度は僕が言う。
「君の名前も、呼んでいい?」
君は少し驚いて、それから頷いた。
「……うん」
「——君」
一瞬、間が空いて、君は首を振った。
「それじゃなくて」
少し照れた顔で、でも逃げない。
「名前で」
僕は、その名前を知っていた。
でも、呼ぶ許可をもらうのは、また別だった。
「……○○」
君の名前を呼ぶと、
君は目を潤ませて笑った。
「ずるい」
またその言葉。
でも今回は、嬉しそうだった。
その夜、君は僕の隣で眠った。
寝息は静かで、でも指先はしっかり僕の服を掴んでいる。
寝言みたいに、君は小さく呟いた。
「……大丈夫」
反射的に、胸が痛んだ。
僕は、そっと君の髪を撫でて、耳元で囁く。
「大丈夫じゃなくても、いいよ」
君は少しだけ身じろぎして、
それから、力を抜いた。
翌朝、君は少し恥ずかしそうに言った。
「ねえ、昨日さ」
「うん」
「私、寝ながら『大丈夫』って言ってなかった?」
「言ってた」
「……癖だね」
そう言って、君は笑った。
でもその笑顔は、前より少し柔らかかった。
「ねえ、○○」
君が僕の名前を呼ぶ。
「これからも、会いにきてね」
「行くよ」
「私が強がっても」
「うん」
「名前で呼ばれて、逃げたくなっても」
僕は、君の手を握った。
「それでも、行く」
名前を知って、
名前を呼び合って、
僕たちは、もう他人には戻れなかった。
つよがりの君に、
僕は今日も会いにいく。
○○と呼ばれる、この名前を持って。
君に呼ばれる、そのたびに、
何度でも、ここにいると決めながら。