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「ぐふ、ぐふふふふふ……」
「こ、皇后陛下……?」
ドレッサーに映る自分に向かって薄気味の悪い笑みを浮かべていたセシリアは、専属侍女のメイサに呼ばれてはっと我に返る。
見ると、後ろで髪を梳かしてくれていたメイサが困惑の表情を浮かべていた。
(いけない! 気持ち悪かったかな⁉)
記憶にあるセシリアは、普段こんな変態染みた笑い方をしない。
このあとのことを考えていたら、ちょっぴり……いや、かなり油断してしまった。
焦ったセシリアは、鏡に映るメイサにぎこちない笑みを向ける。
「嫌だわ、私ったら。アランに会えるのが嬉しくて、つい……」
「そう、ですか……」
メイサは心底不思議な顔をしていたが、セシリアは胸に湧き起こる興奮を抑えきれずにウズウズしていた。だってこれから、前世の推しに会いに行くのだから!
*
セシリアが前世の記憶を思い出したのは、つい先ほどのことだった。
転んで頭を打ったとか、雷のようにピシャーンと何かの衝撃が走ったとか、そういった類ではない。夢の中で見たのだ。
可愛い子どもたちに「優美先生」と呼ばれながら、楽しく保育する自分を。
セシリアの前世は保育士だった。幼い頃からの夢を叶え、彼女の毎日は子どもたちの笑顔でキラキラと輝いていた。
もちろん、楽しいことばかりではない。
大事な命を預かっているという責任は常にあったし、辛く悲しい経験をしたこともある。自分の未熟さに悩み、人知れず涙したことも……。
それでも辞めなかったのは、子どもたちの成長を間近で感じることのできる保育士という仕事が大好きだったから。
保護者と子どもの一年を振り返り、「先生が担任でよかった」と言ってもらえた時は、涙が出るほど嬉しかった。
様々な壁を一つ一つ乗り越え、気付けば保育士八年目。
子どもたちの笑顔に囲まれた日常は、これからもずっと続いていく。
そう信じていた彼女を、突然の事故が襲った。保育中、子どもたちと散歩で信号待ちをしていたところに、一台の車が突っ込んできたのである。
自分の近くにいた子どもを咄嗟に押し出し、他の保育士に引き渡したものの――そこからの記憶がない。恐らく死んでしまったんだろう。
暗闇の中をふわりふわりと漂いながら、子どもたちのことを考える。
(子どもに怪我はなかったかな。びっくりしたよね。怖かったよね。トラウマになってないといいな……)
明るい光に誘われて、ふっと目を覚ます。
天国かと思ったのに、そこは天蓋付きのベッドの上だった。
起きて周りを見渡せば、白を基調とした部屋にヨーロッパ調の豪華な家具が設置されている。
この展開には既視感があった。テンプレと言っても過言ではない。
これは、そう……アレだ。
(目が覚めたら異世界だったってやつ……⁉)
ベッドから下り、すぐさま鏡で自分の姿を確認する。
ふわふわなピンクの髪に、サファイア色の高貴な瞳。美人というより愛くるしい顔立ちをしている。正直言って、めちゃくちゃ可愛い。
しかも更にテンプレなことに、徐々に流れてきたセシリアの記憶から、ここが生前ハマっていた恋愛小説『冷酷皇帝の愛し方』の世界だということに気が付いた。
推しはもちろん、ヒーローのアラン。
深い闇のような黒髪と、鋭利な紅い瞳。目を合わせた者が震えあがるほどの気迫を持つ彼だが、ヒロインにだけ見せる弱さに母性をくすぐられる女性読者は多かった。
舞台はここ、グランゼフ帝国。暖かな気候で、豊かな自然に囲まれた美しい国である。
そして物語は、冷酷皇帝と恐れられる彼と侯爵家の娘であるヒロインが政略結婚するところから始まる。
恐ろしい皇帝との結婚に怯えていたヒロインだが、アランは冷徹ではあるものの、噂通りの暴虐ぶりは見られない。
それなのにアランは結婚式の最中、本来なら愛を誓い合うべき神殿でヒロインを冷たく突き放す。
「俺に愛を期待するな」
その言葉に違和感を持ったヒロインが、持ち前の包容力でアランを深い闇から救っていく――という、珠玉のラブストーリーだ。
自分は今、その世界で生きている。
異世界転生ノベルではよくある話だが、まさか自分の身に同じようなことが起こるとは思ってもいなかった。
幸せ過ぎて口元がふにゃんと緩む。
推しと同じ世界で空気を吸える喜び。この地に転生できたことを心から神に感謝した。
……だけど一つだけ文句を言わせてほしい。
(なんでヒロインじゃないの⁉)
そう。アランと結ばれるヒロインの名はフローラ。名前も見た目も彼女とセシリアは全然違う。
それでは自分は誰に転生したのかというと、なんとアランの継母だったのだ。小説のどこかで一瞬だけ出てきたような気がするけれど、定かではない。
それほどまでにセシリアは影の薄い継母だった。
(普通、主人公じゃないの⁉ もう一回転生ガチャ引かせて‼)
頭を抱えて嘆いたけれど、転生しちゃったものは仕方がない。
それにセシリアの記憶で分かったことだが、今のアランはなんと六歳。
小説のアランは二十六歳でフローラと結婚していたから、この先二十年も推しの成長を特等席で見守ることができるのである。
(だとしても一分……いや、一秒でも惜しい!)
髪を可愛くアレンジしてもらったセシリアは、勢いよく立ち上がった。
ここで会いに行かないという選択肢はあるだろうか。否。継母の特権をフルに使って、小さなアランを存分に愛でてみせる‼
固い決意と燃え上がる使命感を持ち、アランが住んでいる後宮へと向かったのだが。
「と……遠くない⁉」
花々が美しく咲き誇る庭園を抜け、整備された歩道をかれこれ二十分近く歩いているのに、まだ辿り着かない。
ドレスの裾を持って息をゼーハーと切らせるセシリアに、隣で日傘を差してくれていたメイサが言いづらそうに答える。
「アラン皇子の後宮入りは、皇帝陛下からのご命令なので……」
「そうなの⁉」
初めての情報だった。セシリアの心に怒りの業火が燃え滾る。
(あの鬼畜野郎……! 許すまじ‼)
前世で本当に保育士だったのかと疑いたくなるほどの悪態である。
グランゼフ帝国の現皇帝――ギルベルトは、セシリアの夫である。帝国中の乙女たちを魅了するほどの端正な顔立ちをしているが、冷徹で他人を信用しない性格をしていた。
それはセシリアに対しても同じで、政略結婚というのも相まって接し方は極寒のように冷たい。触れた先から凍っていくんじゃないかというレベルだ。
それでもセシリアは、ギルベルトに気に入られようと何度も擦り寄った。皇帝との間にできた子どもを、次期皇帝にしようと目論んでいたのである。
見上げた根性だが、どれだけ可愛い容姿をしていてもセシリアなんて興味のないギルベルトは夫婦関係を拒否し続けた。
それでもめげないセシリアに嫌気が差し、家庭内別居ならぬ皇宮内別居を言い渡したのである。
(ま、私としてはラッキーだけどね)
一人の方が気楽でいい。
それよりも、アランを遠く離れた後宮に追いやったギルベルトが許せなかった。
一体、どういう神経をしているのだろう。
自分の子どもなのに。アランはまだ、六歳なのに……。
「皇后陛下、着きました。ここがアラン皇子のお部屋です」
メイサの言葉にドキッとする。弾かれたように顔を上げると、そこには装飾が施された扉があった。
いつの間にか後宮へと足を踏み入れていたらしい。
(ここに、あのアランが……)
道中はギルベルトへの怒りでいっぱいだったから、心の準備ができていなかった。
生唾をごくりと飲み込む。緊張と興奮で、心臓はありえないくらい大きく脈打っている。
アランは、どんな表情で出迎えてくれるだろうか。
いきなりの訪問に、ちょっとびっくりした感じ? それとも小説のアランのように、「何か?」とクールに訊ねてくる?
あぁっ! どっちのアランも捨てがたい‼
「どうされましたか……?」
はぁはぁと息を荒げていたら、またしてもメイサの戸惑う声が聞こえた。
眉を顰めた彼女は、不審者を見るような目でセシリアを見ている。その反応は人として正しい。
セシリアは咳払いを一つして、前にある扉を真っすぐに見据えた。
――コンコン。
勇気を出してノックをする。
しばらくして、恐る恐る開いた扉から小さな革靴が見えた。黒いショートパンツからは細い足が伸びていて、シャツの首元には彼の瞳と同じ紅いループタイが垂れている。
(あぁ、無理! この時点で可愛い!)
両手で口を覆う。そうでもしないと、溢れ出したときめきが暴走してしまいそうだった。
夢にまで見た推しとの対面に、セシリアは胸をきゅんきゅんさせていたのだが。
「こ、皇后陛下…? 僕に何か御用でしょうか…?」
現れたアランは、猛獣を前にした子ウサギのように震えていた。