第一アドヴェントが終わり次のアドヴェントの為に頑張ろうと身を寄せている先の神父と話していたリオンは、恒例になっている週の始まりのメールを送る為にスマホを取り出して今週の予定を業務日報のように打ち込んでいた。
そのメールをいつもと同じ気持ちで送り今週は忙しいんだなという返事がすぐにあると思っていたが待てど暮らせどウーヴェからの返事は無く、珍しいと思いつつも神父に頼まれた買い出しや教会の修繕などに忙しく動き回り、気が付けばクリスの母が用意してくれた晩ご飯の一品を受け取りに行く時間になっていた為、あっという間に沈んだ太陽に文句を言いながらクリスの家に向かっていた。
すっかりと訪れる事に慣れてしまった家に着いたリオンはドアベルの音の響きの後に小さな足音とゆったりした足音が聞こえてきたことに苦笑し、ドアが開くと同時にしゃがみ込んで両手を軽く広げる。
「リオーン! いらちゃい」
「おー、出迎えありがとうな、リトル・ゾフィー」
舌足らずな歓迎の言葉と腕の中に飛び込んでくる身体を受け止めて抱き上げたリオンは、その後ろで苦笑している父親のリッケルトに肩を竦め、今日も晩飯をありがとうと礼を言う。
「気にするな」
中に入れとぶっきらぼうに促されてこの感覚は誰かも与えてきたぞと思い出そうとした時、脳裏に絵に描いたような農家の格好のハーロルトの顔が思い浮かぶ。
そういえば彼も体格がリッケルトと似通っているが同じような体格になれば性格も似てくるのかと、他愛もないことを考えながら皆が集まっているキッチンに向かう。
「ね、リオン、あーね、オーヴェ、あいたい?」
耳元で聞こえる言葉は幼児特有の舌足らずなものだったがなにを言おうとしているのかが分かり、先日もその話をしたから覚えていたのかと苦笑する。
「何だ、ゾフィー、まだ言ってるのか」
「もしかしてあれからずっと言ってるのか?」
リッケルトの苦笑まじりの言葉にリオンの目が軽く見開かれるが、一日中言い続けていたのかと思えばいくら子供の前であっても迂闊なことは言えないとリオンが密かに反省する。
それを知ってか知らずかリッケルトが少しだけ真剣な顔でそこまで思っているのに会わないのかと問いかけてきた為、アンナゾフィーの身体を抱き直しながらため息を零す。
「……もう少し、な」
「そうか」
自分で決めているのなら人がとやかく言うことじゃないなと笑うリッケルトに感謝しつつキッチンのテーブルに用意されているホワイトソースとチーズがたっぷりと載せられて美味しそうに焼き上がったポテトや魚のフリッターなどに口笛を吹く。
「神父様とあなたの分よ」
「ダンケ」
いつも本当にありがとうと礼を言いながらアンナゾフィーをクリスに預けたリオンだったが、クリスの母のユリアが少し良いかと目で合図を送ってきた為、小さく頷いてキッチンの壁に肩でもたれかかる。
「リック、神父様にそれを届けて来てくれないかしら?」
リオンは家で食べて帰るからとリッケルトに神父様の食事だけ持っていってと頼んだ為クリスが一緒に持っていくと手をあげ、アンナゾフィーも行くとクリスに抱きつく。
妻の様子から話が長引きそうと判断したらしい夫が息子と娘を連れて神父の為に食事を持っていく準備をし、後は頼んだと妻に合図を送って家を出る。
「話って何だ?」
「さっきリトル・ゾフィーが言ってたことよ」
ここに来てそろそろ半年近くになるが本当に帰らなくて良いのかと問われ咄嗟に拳を握って感情を堪えたリオンは、帰りたいけどなぁと言葉を濁してユリアから目を逸らす。
帰らないのかと問われれば今すぐ飛んで帰りたいと思うが、それを実行しようとすると脳裏にどうあっても消し去ることのできない光景が浮かび上がるのだ。
それはあの日ウーヴェに向けて己が発した、決して彼に向けて言ってはいけない言葉を吐き捨てた場面だった。
ウーヴェが過去に己の両親が絡んだ悲しい事件に巻き込まれたことを教えられ、それによって家族間の断絶を経験したことも知っていたはずだったしその解消に己も一役買ったはずなのに、それでも口をついて出てしまった言葉が心の中でずっと抜けない刺のように刺さっていたのだ。
咄嗟に感情的になって口をついた言葉だとウーヴェが理解し許してくれたとしてもその言葉を愛するウーヴェに吐き捨ててしまった己が許せなかった。
いつかも同じような事で口論になったことがあったがあれから時は流れ互いの胸の内を曝け出しながらも一緒にいようと誓ったのに、何度同じ事で自分は悩み苦しみこうして愛する人と離れ離れになってしまうのだろうなと己に対する呆れから自嘲したリオンは、じっと見つめられていることに気づきただ黙って肩を竦める。
「……馬鹿だな、俺」
「そう? 人ってみんなそうじゃないかしら」
あなたが何のことについて自分を馬鹿だと思ったのかは分からないが大なり小なり人は馬鹿なことをするものだと自嘲するユリアに同意の頷きをしたものの、帰りたい思いと同じだけ足を止めさせる思いを抱えその苦しさにため息を溢す。
「……もう少し考える」
「そうね。生きているんですもの。幾らでも考えて幾らでもやり直しができるわ」
「……」
たとえどれ程の失敗をしたとしても生きている限りやり直せるしその機会は残されている、それを手にするか見送るかは自分次第だと笑うユリアの顔にはその機会を逃さずに手にした者の強さを教えるような強い笑みが浮かんでいた。
「この町でやり直したってことか?」
「そうね、そうとも言えるわ」
「そう言えばどうしてこの町に来たか聞いてなかったな」
「……あの町から逃げ出して、基礎学校を卒業するまで住んでいたこの町に帰ってきたわ」
リオンがユリアとクリスに出会ったのはゾフィーが秘密裏に訪れていた小さな教会に事情聴取に出向いた時で、その教会のある町をいつ出てここに越してきたのかと親指の爪をカリカリと引っかきながら問いかけたリオンにユリアが一瞬だけ苦悩を顔に浮かべるが、次いで苦い笑みへと切り替えて肩を竦める。
「シスター・ゾフィーが亡くなられて……クリスの父親がスウェーデンのカーテンの向こうに座っちゃったから」
あの町に居づらくなったと再度肩を竦めるユリアの言葉に一瞬目を見張ったリオンだったが、皮肉気に告げられたスウェーデンのカーテンの向こうとの言葉に理解を示すように頷き腕を組み直して壁に背中を預ける。
「何をしたんだ?」
「……アルコールによる暴力よ。私もクリスも……毎晩のように殴られていたわ」
「そっか」
「……刑務所に入ってすぐに彼も応じてくれたから離婚できた。それだけは感謝したいことね」
小さなクリスを抱いて必要最低限の荷物と一緒にまるで夜逃げするようにあの町を飛び出してここに帰ってきた、ここで暮らす内にリックと知り合いそしてリトル・ゾフィーが生まれたと、満足している顔で笑みを浮かべるユリアに何も言えなかったリオンだったが、笑みの質を変えたユリアが頷きながらだからあなたも大丈夫と確信した顔で頷かれて目を見張る。
「あなたのオーヴェはカーテンの向こうにいるわけじゃ無いでしょう?」
「……ああ」
「刑務所から出てきた人とでもやり直したい気持ちがあれば一から始められるものよ。残念ながら私にそのつもりは無いけどね」
あなたとオーヴェはそんな社会的なハンデを背負っているわけでは無いだろうと首を傾げられウーヴェの名誉のためにそんなことは絶対に無いと頷くと、だったら後はあなたの気持ちだけと笑われて目を伏せる。
ユリアが言わんとすることは理解出来るがその気持ちが足枷を嵌められたような重さを感じているのだと微苦笑すると、愛する人の元に帰るのに何が障害になっているんだと問われて上手く答えられる自信が無かったリオンは、この時初めて双眸に強い苛立ちを浮かべ、とにかくもう少し考える、今日は帰ると言い放ち、子ども達に今日は一緒にメシを食えなくなったと伝えておいてくれと彼女の顔を見ずに告げてキッチンを飛び出す。
その背中を見送ったユリアは、何を意地を張っているのかしらと冷静な第三者の立場でリオンの様子を見て感じた事に首を傾げ、男の子は小さな事で意地を張ってしまうことが良くあると子育て真っ最中のクリスとリオンを重ねてしまい、子どもでは無いけれどいつまで経っても子どものようなところがあると苦笑し教会から家族が戻ってくるのを待っているのだった。
教会の方から自宅に向けて歩いてくる大小の影に気付いたリオンはさすがに今は笑顔で挨拶をする気力が無かったため、避けるように教会の裏を通っている小さな路地に入ってタバコに火を付ける。
ユリアが言わんとすることは理解出来たが、その一歩を踏み出せない事、それに対する己への苛立ちや呆れが綯い交ぜになって心をざわつかせているのだと自嘲した時、いつまで意地を張っているのよという声がどこかから聞こえてくる。
『いつまで意地を張ってるのって言ってるのよ』
「……あ?」
ヘル・バルツァーの元に帰りたいのならさっさと帰れば良いじゃ無いとどこかで響く懐かしい声に彼女にだけ見せていた顔でリオンが反論しようと口を開くが、教会を囲む石垣にもたれながらタバコの煙を彼女に届けとばかりに空へと吹き付ける。
「……意地を張ってるんだろうなぁ」
『何よ、分かってないの?』
あんたがここに来る直前にヘル・バルツァーと口論になったがそれが気がかりで帰れないんだろうと問われてうるせぇとつい癖のように返したリオンだったが、あんたのそんな所もあの人なら総て受け入れて許してくれているわよとも笑われて苛立たしそうに唾を吐き捨てる。
「お前に言われなくてもそれぐらい分かってるよ」
『じゃあ早く帰りなさいよ……それとも何、あんたの弟が許せない?』
「!」
その一言に言葉を無くしたリオンが呆然と目を瞠りノアをどうして許せないと思ったと条件反射のように返すと、どうして彼だけ愛されて自分は捨てられたんだって言ってただろうと返されて拳を握りしめてタバコを石畳の上に吐き捨てる。
「許せなくて当たり前じゃねぇか? それともそう思っちゃいけねぇってのか、ゾフィー!?」
その言葉はウーヴェの前では絶対に出さなかったがその存在を見抜かれているリオンの心の奥底に蹲っている子どもが発したもので、滅多に表に出さない嫉妬や羨望といった一度囚われてしまうと雁字搦めになってしまう後ろ暗い感情だった。
その感情に囚われることを良しとしないリオンが口に出した本音に今背中を預けている石垣の上に腰を下ろしたゾフィーが長い髪を掻き上げながら目を細め、そう思って当たり前よと同意するが、同じ親から生まれた兄弟だと思うから腹が立つんでしょうと続けてリオンの蒼い目を限界まで見開かせる。
「ゾフィー? 何を言ってるんだ……?」
『ねえ、知らない方が良いこともあるってあたしが言ったの覚えてる?』
それはゾフィーが事件に関係しているのでは無いかとリオンが疑い彼女に事情聴取をするから警察に来いと詰め寄ったときに言われた言葉だったが、忘れるわけがねぇと吐き捨てるように告げると、あたしの両親もロクなものじゃ無かったがマザーがいてくれたお陰で人らしく生きられたと穏やかな声で教えられて更に目を見張ってしまう。
「……ゾフィー……」
『死ぬ直前になってやっと分かったのよ。あたしの親はマザーだって』
そしてあたしがずっと欲しくて仕方が無かった家族はホームで一緒に暮らしたあの人達だった。
その言葉にリオンがまるで憑き物を落とすように瞬きを一つし、膝が崩れそうになるのを何とか堪えて懐かしい顔を見上げる。
『……中毒で入院している親があたしにしてくれたことはあたしを生んでマザーの元に捨てただけ』
ホームに捨てられマザーらが自分たち大人の食事の量を減らしても子ども達に食べさせ援助や補助金を子ども達の為に使ってくれた、本来ならばそれをするのは親のはずだがその親が放棄したことを血の繋がりも何も無い人達が行い、子ども達が日々笑顔で過ごせるようにしてくれていた、それをはっきりと理解したのは死の直前でそれだけは悔やんでも悔やみきれないと心底悔しいと思っている顔で呟くゾフィーを呆然と見上げることしか出来なかったリオンは、ねえ、あんたの親は誰と問われて震える口を開くが言葉が出てくることはなかった。
『あんたを生んですぐに捨てたあの人達?』
あんたはあの人達を親だと思えるのか、あんたがそんなに心の広い人間だなんて知らなかったとゾフィーに呆れたように笑われ、うるさいとだけ辛うじて言い返すがそんなリオンの脳裏にウーヴェの同じような表情が浮かび上がる。
お前を今まで一度たりとも子供だと呼んだこともない親と今のゾフィーと同じ表情で笑ったウーヴェに再度同じ言葉で同じ顔で笑われて強かに頭を殴られたような痛みを覚えたリオンは、拳を握って石垣を殴りつける。
『ねえ、血の繋がりってそんなに大切かしら』
「……!」
『血が繋がっているだけで家族なんてことないでしょう?』
家族というのは血の繋がりだけではなく心のありよう、同じ時を過ごし同じ前を見ながら肩を並べて手を取り合える人達も家族では無いかとゾフィーが痛みを堪える顔で囁くとリオンの膝が限界を迎えたのか、そのままそこに座り込んでしまう。
『あんたが本当に欲しかった家族は……もうとっくの昔に手にしていたのよ』
どれ程迷惑を掛けようが心配を掛けようが決して見放さずふらっと帰っても笑顔でお帰りなさいと出迎えてくれるマザーやアーベル達、遊びに行けばいつでも笑顔で駆け寄ってくる子ども達。
そしてそこに新たに加わったのがあんたのオーヴェと彼の両親や兄姉じゃないのかと頭を抱え込んでしゃがみ込むリオンに寄り添うように膝を抱えたゾフィーは、あたしはもう手遅れだけどあんたはまだやり直せる、素直になってウーヴェに出て行ったことを謝ってこれからはもう絶対に離れないって言えば良いのよと笑いくすんだ金髪をそっと撫でるように手を動かす。
「ゾフィー……っ!!」
『まだやり直せるわ。ヘル・バルツァー……ウーヴェなら絶対にあんたを見捨てないわ』
あたしはもう間に合わないけどあんたは生きてるの、幾らでもやり直しが出来るわ。そして、ウーヴェもあんたのその気持ちを大事にしてくれる人だわと生前の彼女ならば言えなかったことがリオンの胸に届けられて抱え込んだ頭から手を離して顔を上げれば、そこにはいつどんな時でもそれこそ警察沙汰になるような事を起こした後でも絶対に見捨てずに己を抱きしめて護ってくれたマザー・カタリーナとゾフィーの笑顔が見え、その隣にウーヴェの笑顔も見えた為、ここが路地裏である事も忘れて泣きそうな顔になってしまう。
「オーヴェ……っ!」
『いつもウーヴェに素直になれって言ってるじゃない。だったらあんたも素直にならなきゃ。ね、リオン』
幼い頃一人で眠れなくなって廊下で蹲ってはそれに気付いたマザー・カタリーナやゾフィーらに部屋に連れて行かれて一緒に眠っていた頃の癖を久しぶりに見たと懐古に目を細めるゾフィーだったが、その横で膝を抱えながらあの頃と違って実際に触れることの出来ないリオンの髪や背中を何度も撫でて大丈夫だから素直になりなさい、ウーヴェと一緒の未来を歩くのでしょうとリオンの背中を言葉でそっと押す。
雪が降り始めたのかゾフィーの身体を通してリオンの背中に冬の女王が歓喜に撒き散らす雪が乗ってはすぐに消えていく。
雪が降る空を見上げて生きていくのは辛いことが多いわ、でも本当に理解してくれる人がいればそんな辛い人生もそれだけじゃなくなると笑うゾフィーにリオンが意を決したように顔を上げ、己の隣でいつもの笑顔で見守ってくれている彼女に気付き腕で目元をぐいと拭う。
「……オーヴェに逢いてぇなぁ」
『自転車で一時間ぐらい走れば逢えるんじゃないかしら』
「何だよそれ」
お前のその言葉だと心理的な距離が理由で逢えないでいるのに単なる物理的な距離が原因で逢えないみたいじゃないかと眉を寄せ、落ちつくために取り出したタバコに火を付ける。
『心理的な距離なんて元々ないわよ。あんたが考えすぎて離れただけでしょ』
さっきの嫉妬する自分をウーヴェに見せたくない、見せてしまって気恥ずかしいし見せたが最後って思ってるようだけどあんたのそんな顔もあの人はしっかり見抜いているわよと、同じ言葉を告げられてタバコの煙を無言で上空に細く吐き出したリオンは、確かにそうだよな、今更何を恥ずかしがっていたんだろうなと呟くと頬を一つ叩いて立ち上がる。
「……腹減ったなぁ」
『クリス達が食事を持ってきてくれたけど、あれは神父様の分だけね』
グラタン、美味しそうだったわね、でも残念ながらユリアの家を飛び出したあんたに今日の晩ご飯はないわと笑うゾフィーをじろりと睨んだリオンだったが、前髪を掻き上げて再度煙を細く吐き出すと、顔を上げて雲の合間に見える星に目を細める。
『今からホームに行って皆を驚かせて来ようかしら』
「止めておけよ。今はゲオルグもいる。結構なじいさんなんだ、ぽっくり逝ったら大変だろうが」
だから出てくるのなら俺の前かマザーの前だけにしておけと口の端をにやりと持ち上げたリオンは、目の前に本当にゾフィーがいるような顔で話をするものの、神様の傍でノーラと一緒に地上を見下ろしている彼女がそこにいるはずもなく、だがそれにしてはやけに実感があると思いつついつも当たり前にしていたように長い髪を手に取ろうとするが、リオンの手が掴んだのはただの空気で、それに気付いたゾフィーが悲しそうに笑みを浮かべる。
『……こうなる前に早くウーヴェの元に帰りなさい、リオン』
「……ダンケ、ゾフィー」
姉の言葉に素直に礼を言った弟だったがあんたの口からダンケなんて初めて聞いた気がすると笑われてなんだそれはと頬を膨らませるが、タバコを靴の裏で揉み消したリオンは大きく伸びをして晴れ間が広がってきた夜空を見上げる。
「……オーヴェに電話してみるか」
『そうね。散々文句を言われれば良いわ』
ゾフィーのその言葉が己の決断を応援するものだと分かっていた為に素直に応援しろよと笑みを深め、あーあ、腹が減ったなぁと宣いながら頭の後ろで手を組む。
『……リオン!』
「あー?」
『ウーヴェと仲良くね。それと……マザーに愛してるって伝えておいて』
「自分で言えよ」
姿がぼやけ始めたゾフィーの言葉に肩越しに振り返って意地の悪い笑みを見せたリオンだったが、ヒラヒラと手を振ってまたなと呟くとまたねと彼女の声が耳元で聞こえ、満足げな顔で空を見上げて白い息を吐く。
そう言えば今朝送ったメールに返事がまだ届いていない事に気付きさっき彼女に軽い気持ちを装って伝えたように電話をしてみようと決め、神父が心配そうに待っている教会横の家に勝手知ったる顔で入り、食事をせずに待っていた神父に先に食えば良いのにと素直ではないことを告げつつも神父が食事をするのに付き合うようにビールを取り出して向かいに腰を下ろし、タバコに火を付けて神父と他愛もない話をしながら二人だけの晩餐の時を送るのだった。
神父が食事を終えて自室に入った後に今は自室になっている客間に入り手紙を書くために使っている机に尻を乗せたリオンは、緊張しているのか無意識に唾を飲み込んでしまう。
ゾフィーに背中を押されて電話をかけようと思ったが今更ウーヴェは己の電話に出てくれるのかと言う恐怖が発する言葉が響き、スマホを机にそっと置く。
一番理解して受け入れてくれているウーヴェを傷付け一緒に前を向いて歩いて行こうという手を撥ね除けて背中を向けた己をまだ受け入れてくれるだろうか。
その言葉はリオンの中では今まで経験した事がないほどの恐怖をもたらすもので、ついその恐怖に負けて電話をかけるのを今日は止めておこうと呟いてしまうが、ゾフィーとユリアの二人があなたの愛する人を信じなさいと穏やかな顔で背中を押してくる。
その力を借りてスマホの短縮番号の最初に登録している番号を呼び出し、心臓が口から飛び出しそうな緊張を覚えながらスマホを耳に宛がう。
この電話に出てくれるだろうか。それとも愛想を尽かして出てくれないだろうか。
早鐘のように鳴り響く心臓の音にうるさいと言い放ちコールを数え、穏やかないつでも聞いていたいが今は緊張を覚えさせる声が聞こえてくるのを待つがコールが10を越えてもウーヴェの声は聞こえてこなかった。
メールの返事もなければ電話にも出ない理由を探ったリオンは、己に呆れたとしてもそれでも無視はしないはずだという自信だけはあった為に何かあったのかそれとも体調が悪くて寝ているのかと心配になりふと我に返る。
この町に流れ着いた日からウーヴェの事は考えていてもそれは己の中でウーヴェと対話していただけで、以前と同様の暮らしをしているはずで寝込んでしまうような体調不良に陥っている可能性など考えてはいなかった。
一人になって考えたいと家を出た己を感情を堪えつつ送り出してくれたウーヴェだったが、本当は行かせたくなかったのではないのか。
嫌だと泣きそうな顔で一言引き止めたがそれでも一人になりたいと己が言い張った為、ウーヴェは自分の主張を押し殺してリオンがやりたいことをやらせてくれたのではないのか。
不意に芽生えたその想いにスマホを取り落としそうになったリオンだったが、やっとそれに気付いたのねという呆れていながらも気付いたことを褒めてくれるゾフィーの声が脳裏に響き、本当に己は馬鹿だと自嘲する。
『気付いただけでもいいじゃない』
いつまでも気付かない、気付いても素知らぬふりをする人もいるのだ、気付くのが遅くてもあんたのオーヴェなら許してくれるから早く電話をかけなさい。
ゾフィーに三度背中を押されてため息交じりにスマホの画面を見つめたリオンだったが、今夜は止めておく、己の馬鹿さ加減にほとほと呆れた、明日朝一番に絶対に電話をすると呟き、ベッドにスマホを放り出して次いで自身も後を追うように飛び乗る。
窓から見える夜空はさっきの雪は一時的なものだと教えるように晴れ渡り、まだ問題は解決していないがようやくウーヴェに連絡を取ろうとするリオンを応援するように星が瞬くのだった。
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