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夕闇が静かに湖面を包み込み、昼間の喧騒が嘘のような静寂が戻ってきた。


湖畔での甘いひとときを終えて、私たちは再び小さなボートに乗り込んだ。


行きとは違い、周囲を覆っていた乳白色の霧はすっかり晴れ渡り


赤銅色に染まった空が鏡のような水面に映り込んでいる。


遮るもののない景色は美しいけれど、どこか世界の終わりに迷い込んだような心細さも感じさせた。


岸辺に戻ると、主人を待っていた御者と数人の護衛たちが、一歩分の距離を厳格に保って深く頭を下げる。


クラウド様は無言で私の腰にそっと手を添えて、馬車へとエスコートしてくれた。


その手のひらの熱が、薄手のドレス越しに私の肌を焦がすようで、触れられている場所から心臓の鼓動が速くなっていく。


馬車が走り出すと、車内には心地よい揺れと、二人きりの贅沢な静寂が訪れた。


「エリシア、今日は楽しんでもらえたかな」


隣に座ったクラウド様が、髪に触れるか触れないかの距離で囁くように問いかけてくる。


「はいっ、湖もお料理もとても素敵でした……! でも……もう帰らないといけないと思うと、ちょっと寂しいですね」


私が正直な気持ちを伝えると、クラウド様は満足げに目を細め、慈しむような眼差しで私を見つめた。


「心配しなくても、デートはまだこれからだよ」


「え?!」


「言ったろう? 連れていきたい場所があるって」


「それって……」


「君に特別なディナーを用意しているんだ。今日のドレスも、そのためのドレスコードだからね」


「……! そ、そうだったんですね……! ……クラウド様とディナーなんて……すごく楽しみです……っ!」


「ああ、でも着くまで時間もある。眠かったら寝ていていいよ、着いたら起こしてあげるから」


そのクラウド様の優しい言葉に誘われるように、揺れる馬車の中で、私は次第に強い睡魔に襲われていった。


ピクニックで振る舞われた甘い紅茶の余韻と、一日中浴び続けたクラウド様からの濃密で熱い視線…


それらが私の精神を心地よく摩耗させ、抗いがたい眠りへと引き込んでいく。




◆◇◆◇


しばらくして馬車が止まったとき、私はクラウド様の腕の中で小さく身じろぎした。


「……んっ……」


眠気がまだ残っていて、ぼんやりと目を開けると、彼の金色の瞳がすぐ近くで私を見下ろしていた。


重力に従って垂れる彼の前髪が私の額に触れ、くすぐったい。


しかも、今の私の状態は、クラウド様の膝の上に頭を乗せて横になっている…


いわゆる「膝枕」をしてもらっている状態だった。


私の体には、いつの間にか丁寧に柔らかなブランケットまで掛けられていた。


「エリシア、おはよう。丁度着いたよ」


耳を震わせる優しい声に、私は自分がどれほど無防備な姿を晒していたかを悟り、顔を真っ赤にした。


「ご、ごめんなさい、重かったですよね……!」


慌てて体を起こそうとする私を、彼は支えるように肩を抱く。


「……とっても軽いよ。もう少しこのままでいたかったぐらいだ」


冗談交じりにそう微笑まれて、私はますます照れてしまい、俯くことしかできなかった。


窓の外に視線をやると、そこには夜の王都でもひときわ華やかな建物が建っていた。


ガラス張りの天井から星空が覗く、選ばれた者しか入れない最高級レストラン。


護衛が馬車の扉を開けると、ひんやりとした夜風と共に、夜にだけ香る甘い花の香りが車内へ流れ込んできた。


クラウド様が先に下り、騎士のような所作で私に手を差し伸べる。


私はその大きな手に自分の手を重ね、馬車から下りた。


薄手の空色のドレスが夜風にふわりと揺れて、肌に冷たさを感じる。


けれど、クラウド様はそれを予見していたかのように、すぐに自分の上着を脱いで私の肩にかけてくれた。


「今夜は冷えるからね」


「でも……! そうしたらクラウド様だってお寒いんじゃ……」


「僕は大丈夫だよ。大事な君が体調を崩してしまう方が心配だ」


「クラウド様……」


「ほら、行くよ」


クラウド様に手を引かれ、導かれるようにレストランの入口へ向かう。


そこでは黒い燕尾服を着こなした給仕長が深く一礼し、「クラウド様ですね、お待ちしておりました」と恭しく出迎えてくれた。


店内に入った瞬間、私は思わず息を呑んだ。


見上げた天井はすべて特注のガラス張りで、まるで頭上に満天の星が降り注いでいるかのよう。


巨大なシャンデリアが幾千もの宝石を散りばめたような光を放ち、テーブルの上には無数のキャンドルが揺らめいている。


青い薔薇で作られた見事なアーチが奥へと続き


中央の円卓には磨き上げられた銀の食器が、星の光を反射して美しく並べられていた。


まるで、お伽話に出てくる貴族の晩餐会そのものの光景。


給仕に導かれ、私たちは一番奥にある個室へと通された。


そこは三方がガラスに囲まれた特等席で、眼下には宝石箱をひっくり返したような王都の夜景が広がっている。


テーブルにはすでにキャンドルが灯り、青い薔薇の花びらが雪のように散らされていた。


「……お店もバラも夜景も、素敵すぎて……まるで夢を見ているみたいです…っ」


私が思わず独り言のように呟くと、クラウド様は柔らかく微笑んだ。


「君と過ごす夜だから、特別にしたかったんだ」


対面席に着くと、流れるような所作でコース料理が始まった。


まず運ばれてきたのは、透明なコンソメスープに繊細な金箔が浮かぶ一皿。


次は、口の中でとろけるように温められたフォアグラ。


そして、あの湖で採れたという希少な白身魚のポワレに、銀粉を混ぜたような星屑のように輝くソースがかかっている。


どの料理も驚くほど美味しくて、ため息が出るほど──。


でも、正直なところ、味の記憶が飛んでしまいそうなほど、クラウド様の視線がずっと熱い。


「どうだい? 口に合うかな」


「はい……! とても美味しくて……。こんな贅沢、初めてですし、私なんかが食べていいのかなと……っ」


「エリシア、そうやって自分を卑下するのは君の悪いクセだよ」


「……! ごめんなさい、気分を害されてしまいましたよね」


私が慌てて謝ると、クラウド様はテーブル越しに手を伸ばし、私の頭を愛おしそうに撫でて言った。


「そうじゃなくて。君はこんなにも素直で初々しくて……美しい子なのに、それをその本人が否定してしまうのは悲しい。何より、僕の愛する人を卑下するのはやめてほしいな」


「クラウド様……っ、ありがとうございます…クラウド様がそう言ってくださるなら、気をつけますね」


嬉しさと、胸の奥から込み上げる熱い感情に


私は俯きがちになりながらも、その言葉を宝物のように心に刻んだ。



◆◇◆◇


メインの肉料理が運ばれてきた頃には


窓の外には銀色の月が昇り、夜景をより一層美しく照らし出していた。


キャンドルの炎がゆらゆらと揺れて、向かい合うクラウド様と私の影を壁に大きく映し出す。


その影は、まるで一つの生き物のように寄り添い合っているように見えた。


次に運ばれてきたデザートは、職人の技が光るバラの形をしたムースだった。


ひとくち口に運ぶと、中から温かく甘いベリーのジュレがとろけ出し、官能的な香りが鼻を抜ける。


「おいしい……っ!」


思わず声を漏らしてしまった私を見て、クラウド様がクスりと喉を鳴らした。


「それは良かった。ここを選んで正解だった」


恥ずかしくて頬を赤くする私の頬に、彼は指先でそっと触れると、慈しむように優しくキスを落とした。


「ひぇっ」


思わず情けない声を出して驚き、クラウド様を見上げる私。


クラウド様はそんな私を、世界でたった一つの宝物を見るような瞳で見つめ返してくる。


キャンドルの炎が瞳に映り、彼の独占欲が静かに燃えているのが分かった。




コースの締めくくりは、琥珀色に輝くポートワインだった。


二人でグラスを軽く合わせて、静かに飲み干す。


芳醇なアルコールが体を芯から温めていく。



◆◇◆◇


食事が終わり、レストランを出る頃には、夜はもうすっかり深まっていた。


再び馬車に乗り込むと、今度は私は迷わず、吸い寄せられるようにクラウド様の肩に寄りかかった。


クラウド様の逞しい腕が私の腰に回り


折れてしまいそうなほど優しく、けれど確実に抱き寄せられる。


「クラウド様……クラウド様の匂い…好きです」


私が胸元に顔を埋めて呟くと、彼は私の髪に深いキスを落として囁いた。


「……僕も、エリシアの香水を作りたいぐらいには、エリシアが好きだよ」


馬車が屋敷に向かって走り出す。


窓の外では王都の夜景が光の筋となって流れていく。


私はクラウド様の胸に耳を当てて、規則正しく


けれど力強く刻まれる彼の心音を聞きながら、静かに目を閉じた。


この幸せが、永遠に、ずっと続けばいいのに──。


そう心から願いながら、愛する人の腕の中


優しい揺れに身を任せて深い安らぎに浸った。


激重ヤンデレ公爵の愛執から逃げられない~狂愛の果ての狂依存~

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