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海の紅月くらげさん
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あれから数日が経ち、最近は少し寝不足だった。
家を出る準備のために夜遅くまで部屋の荷物をまとめたり、カタログを見ながら必要な家具や電化製品を選んでいた。家庭科室にも時々しか顔を出せていない。
今日も家庭科室へは寄らずに、家に帰るつもりだ。
靴を履き替えていると、ゆらりと影が足元に落ちた。
「ましろん!」
「っ、び、くりした……!」
ぼんやりと歩いていると元気よく声をかけられて、肩が跳ねる。
武蔵先輩がにこにことしながら、私に飴玉を差し出してきて、よくわからないまま受け取った。
「疲れた時には、甘いものが大事だ」
「……はい、ええっと、ありがとうございます?」
「このあと予定あるか?」
「え……ないですけど」
それならばと、腕を掴まれて足を進めていく。一体どこへ連れていくつもりなんだろう。
連れてこられたのは校舎裏の大きな桜の木の前だった。
桜の木は、花が散り緑が生い茂っている。
突然木登りをしはじめる武蔵先輩。そしてすぐそばの体育用具が入っている倉庫の上に飛び乗った。
「えっ、武蔵先輩!? そんなとこ登っていいんですか」
「どうした? 怖いのか」
軽々と倉庫の上に着地した武蔵先輩が私に手を差し出してきた。
そんなに高くはないので、登ろうと思えば登れる。
「私、別に登りたく……」
「同じところから景色を見ていて飽きないか?」
今の武蔵先輩は普段より真面目な表情をしていて目を逸らせない。
「位置を変えれば見え方も変わるぞ」
「……登ります」
木の幹に手をかけて、ゆっくりと登っていく。そして木に登り終えると、武蔵先輩が手を伸ばしてくる。その手を取って、私も倉庫に飛び乗った。
「ここはお気に入りの場所なんだ」
「いつもここでサボってるんですか?」
「うっ」
少し高いところに乗っただけ。
それでも、風に奏でられる木々の揺らめきがこんなにも近くに感じて見えて、風景もいつもよりも広くて笑みが溢れる。
最近張りつめていた心がゆるりと安らぐ。武蔵先輩の言った通り、少しの高さで見え方って変わるんだな。
「最近疲れているみたいだったから、いい気晴らしになったか?」
「え……それでここに?」
「視点を変えるのは案外難しいからな。それとここで俺がサボってるのは秘密だからな! 特にじゅんじゅんに!」
……絶対叱られるからだろうな。
武蔵先輩も見え方を変えたくてここに登ったのかな……?
実里くんの過去のことを武蔵先輩もかなり気にかけているのは保健室の時にわかった。けれど、普段ふざけてばかりの武蔵先輩の心情を私はまったく知らない。
穏やかな風が吹いて、ゆっくりと目を閉じる。最近引っ越し準備に追われていた私にとっては久しぶりの安らげるひとときだった。
「歌うとストレス発散できるぞ」
「歌わないでくださいね」
「ふんふんふふーん」
上機嫌で鼻歌を口ずさむ武蔵先輩がおかしくって、私は久々に声を上げて笑ってしまう。
ところどころ音程もおかしいのに、武蔵先輩は愉しそう。きっと武蔵先輩なりに元気づけようとしてくれているんだと思う。そのことが私は嬉しかった。
「実は今度引っ越すんです」
「引っ越し?」
「はい。……ひとり暮らしをすることに決まって。それでバタバタしていて」
ざっくりと引越しについての準備が忙しいことや、これからひとり暮らしが始まることを話すと、武蔵先輩は黙って聞いてくれた。
「そうか。大変だな」
またテンションが高い反応をされるかと思ったけれど、落ち着いている。
「困ったことがあれば言ってくれ」
まるであの夜の歩くんみたいで、私は自然と顔が綻ぶ。
「ありがとうございます」
泉くんが私の事情を彼らに話したから、きっと義母たちとうまくいっていないことは武蔵先輩もわかっているのだと思う。だけど深くは聞かずに、しばらくの間隣にいてくれた。