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✧≡≡ FILE_029: 泣き声 ≡≡✧
[4年前]
夜が、ひび割れた。
家じゅうの空気を震わせるような泣き声が、何度も何度も壁に反射しては跳ね返り、フラッシュの耳を叩く。
ベビーベッドの上。
ローライトがのけぞるように泣き、両手を宙に伸ばしては、掴めない何かを必死に探している。
身体はまだ幼い。1歳──
床には哺乳瓶が転がり、タオルが落ち、温めたミルクはすっかり冷めている。
雨が降り出しそうな夜気が、窓越しにじっとりと張り付いていた。
フラッシュは寝室の入り口で立ち止まり、手を額に当てた。
体は重く、思考は曇る。
寝不足が続きすぎて、視界がほとんど滲んでいる。
「……なあ……もう……泣くな……頼むから……」
頭の奥がじりじり焼けるように痛い。
哺乳瓶を差し出しても、ローライトは首を振り、喉の奥から必死に泣き声を絞り出す。
「……市販のミルクが嫌なのかよ……。そんな贅沢……言うなって……」
言葉に荒さが混じる。
そのくせ、喉の奥では別の感情が暴れている。
──ごめん。
──怒りたいわけじゃない。
罪悪感は涙よりも冷たく、重く、胸の底でじわりと広がっていく。
その重さが、封じていたはずの記憶をこじ開けた。
──彼女の腕の中で、この子が笑っていた光景。
ほんの数秒、脳裏に灯った光を、フラッシュはまるで罪を振り切るように、首を乱暴に振った。
「……俺には乳は出ないんだよ……」
呟いた瞬間、自分でも気づくほど呼吸が乱れた。
笑おうとしても、そのための力さえ残っていない。
泣き声は止まらない。
部屋のどこにも逃げ場はない。
フラッシュは、ふらつく足のまま床へ崩れ、壁に背中を預けた。
冷たい壁が、やけに重く感じる。
「……俺なんかが親代わりじゃ……この子が……可哀想なんじゃないか……」
誰にも向けられない言葉が、湿った空気の中に沈んでいく。
そのとき──
机の端で、ひっそり光る電話機が目に入った。
「、……」
呼吸が止まる。
体が勝手に動いた。
縋るように手を伸ばし、受話器を掴む。
震える指が、慣れすぎた順番でボタンを押していく。
プルル……プルル……。
数回の呼び出し音のあと、あの落ち着いた声が聞こえた。
『──フラッシュ? どうしたんだ? こんな時間に』
「……ワイミーさん……俺、もう……無理かもしれません……」
『何が、どうした? まさか、ローライトが?』
「泣き止まないんです……俺、もう、どうしていいか分からない。……ミルクも飲まないし、寝ないし……」
『落ち着いて。今、何時だ?』
「午前……三時、です」
『三時……寝てないのか?』
「寝れませんよ!この子の声、止まらないんですから……」
声が震えていた。
受話器を握る手が汗で滑る。
──けれど、泣いているのは赤ん坊じゃなく、俺の方だった。
『……分かった。フラッシュ、今からそっちへ行く』
「えっ……そんな、夜中ですよ……!」
『夜中だからこそ、だ。──その子をひとりにしないこと。いいね?』
通話が切れる。
受話器を置いたあとも、耳の奥でワイミーさんの声が残っていた。
時計の針が、この家に不釣り合いなほど大きく響く。時間が進んでいるのか止まっているのかすら分からない。
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