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✧≡≡ FILE_030: 親 ≡≡✧
──ひぃっ、あっ……ああああああっ……!
「……………」
──あ、ああぁああっ……!
「……………うるさい」
──ひっく、ひっく……あああぁぁ……!
「うるさい……うるさい……」
その声にかき消されるように、フラッシュは呟いた。
「…………ワイミーさん、早く……」
どれくらい経っただろうか──
ようやく、玄関のベルが鳴った。
フラッシュは慌てて立ち上がり、ドアを開けた。
冷たい夜気の中、コート姿のワイミーさんが立っており、手には小さな紙袋を提げている。
「……すみません、ワイミーさん、こんな夜遅くに……」
「いや、謝ることじゃない」
ワイミーさんは穏やかに微笑み、コートも脱がずに部屋に入った。
泣き声のする方へ、迷いなく歩いていく。
ベビーベッドの上、ローライトは顔を真っ赤にして泣きじゃくっていた。
小さな拳をぎゅっと握りしめ、息を詰まらせるように泣き声をぶつけてくる。
ワイミーさんは無言でその様子を見つめ、落ち着いた動作でオムツを替えて、温かいタオルで肌をやさしく拭った。
すると──
ふと、その視線がフラッシュへ滑った。
泣いているのは赤ん坊だけではないことに、気づいてしまったかのように。
「……フラッシュ」
名を呼ぶ声は、責める色を一切含んでいなかった。むしろ、泣いている赤ん坊よりも、今は君の方が危うい──そう言いたげに。
フラッシュは思わず視線をそらした。
胸の奥がどくりと熱くなり、呼吸が少しだけ乱れる。
ワイミーさんはローライトの体を包み直しながら、やわらかく続けた。
「……ひとりで背負い込む必要はない」
その言葉が胸に触れた瞬間、フラッシュはかすかに肩を震わせた。抱えていたものを見抜かれたようで。
ローライトの泣き声が、少しずつ落ち着いていった。
「……俺がいくらあやしても、泣き止まなかったのに……」
言葉がこぼれる。
ワイミーさんは答えず、小さく息をつきながら、ローライトを抱き上げた。
その腕の中で、ローライトはゆっくりと泣き止み、まぶたを閉じ始めた。
それを見ているうちに、フラッシュの胸の奥がじんわりと痛みだした。
「……やっぱり、俺じゃ駄目なんですね……」
小さな声で呟いた。
「俺なんかが親代わりじゃ、この子が可哀想だったかな……」
ワイミーさんはローライトをあやしながら、言った。
「誰も、最初から上手くできる親はいない。フラッシュ、君が“居る”ことが、もう十分に意味のあることだと、私は思う」
キリスはその言葉にうなずけなかった。
ただ、沈黙の中で、自分の手を見つめていた。
手のひらの温もりは、どこかで失ってきた“光”の記憶と重なっていた。
❅❅❅
ローライトはワイミーさんのおかげでようやく静かになった。
小さな寝息が、ベビーベッドの上で規則的に揺れている。
ワイミーさんが優しく毛布を整えると、彼の指がかすかに動いた。
「……眠ったな」
「……はあ、良かった……」
その声が、夜に溶けていった。
──数年前。あの臨界事故の責任を、誰よりも重く感じていたのは俺だった。
ドヌーヴを失い、コイルを失い、その中で生き残った“この子”だけが光だった。
彼を育てると言った時、ワイミーさんは反対した。
「子供が子供を育てられるわけがない」──と。
正論だった。
だけど、俺には、それ以外の生き方が残っていなかった。
ルミライトの完成報酬で手に入れた金は、想像以上であり、巨万の富を得た。
人目のつかない郊外の小さな一軒家。
研究所からも、街の喧騒からも離れた場所。
“彼”と二人で、生き直すための場所。
──案の定、上手くはいかなかった。
泣き声に眠れない夜が続き、食事の匂いだけで吐き気がした。鏡を見るたびに、知らない顔が映っていた。ノイローゼだと自覚する頃には、もう感情の切り替え方さえ忘れていた。
……名前も、まだない。
考えたことは、何度もある。
でも、どうしても“つけられなかった”。
名前を呼ぶたび、あの声──ドヌーヴの最後の言葉が蘇る。
「俺の子供には、お前の名前をつける」
あの“余計な一言”が、心に深く刺さったまま抜けない。
だから俺は、呼べない。
この子の名前を──
“呪い”にしたくなかったから。
それでも、ローライトは、俺の罪の証であり、唯一の救いだった。
夜風がカーテンを揺らす。
ローライトの小さな寝息が、それに混ざって消えていく──俺はお湯をカップに注ぐと、ワイミーさんの前に差し出した。
「……どうぞ、冷めないうちに」
ワイミーさんはそれを受け取り、香りを確かめるように目を細めた。
「フラッシュの淹れるココアは、昔と変わらないな」
「ええ……でも、味を覚えてるのはこれくらいですよ」
苦笑しながら、フラッシュはカップを口に運ぶ。
目の下の隈が濃い。
頬はやつれ、髪も整っていない。
それでも無理に笑うその姿が、余計に痛々しかった。
「眠っていないのか」
「寝ても、すぐ起こされますから。……この子が泣くと、どうしても」
「母親の声が聞こえないのが、不安なんだろう」
「……多分、そうです」
フラッシュの声はかすれていた。
膝に置いた手が小刻みに震えている。
ワイミーさんは一度だけ息を吸い、湯気の向こうでゆっくりと言った。
「──フラッシュ」
「……はい」
「もし、あなたに提案をしてもいいなら、ひとつだけ聞いてもらえるか」
フラッシュは顔を上げた。
その目は、疲労の奥にほんの少しの希望を探しているようだった。
「私は、ずっと考えていた。人の才能というものが、もし“育て方”で変わるのなら──天才を、意図的に育てることはできるのではないかと」
「……天才を?」
「ああ。個人の資質や血筋ではなく、環境で育つ“頭脳”を──私のような人間が、百人、千人と育てれば世界は、もっと速く進むと思うんだ。それが、今私の構想している『ワイミーズ・ハウス』。世界中に孤児院を建て、様々な才能を育てる。 孤児院だ」
フラッシュはその背中を見つめながら、しばらく言葉を失った。
「……それは……本気で?」
「もちろん。私はルミライトで手に入れた巨万の財産を使って世界中の孤児たちに学びの機会を与えるつもりだ」
「……孤児、ですか」
少しだけ考えてしまった。
この手の内から離すことを。
「ローライトも──もし、あなたが希望するなら、その中の一人として迎え入れる」
その言葉に、空気が止まった。
フラッシュは思わずカップを握りしめる。
「……この子を……施設に、ですか」
「ああ。彼らの優秀な血を継ぐ子なら、必ず、何かを成し遂げる力を持っているだろう。フラッシュも分かっているはずだ。子供が子供を育てるには、あまりに過酷だということを」
「お、俺……もう24ですよ?」
「24でも、まだ子育てをするには早すぎると私は思う」
沈黙。
時計の針が、また一つ音を刻む。
フラッシュは、カップの中のココアを見つめた。
そこに映る自分の顔が、ひどく遠くに見えた。
「……この子を手放すのは、寂しくないと言ったら、嘘になります」
「分かってる」
「でも──この子のためになるのなら、俺の手を離れるべきなんです」
「……………」
「……あの子には、光の中から生まれた理由がある。だったら俺じゃなくても、ちゃんと導いてくれる場所に行くべきだと思うんです」
ワイミーさんは、ゆっくりと頷いた。
フラッシュは視線を落とし、微笑んだ。
「この子が……世界を変えるなら、それが一番の救いです」
──ローライトは、眠っていた。
小さな胸が上下し、時折指がかすかに動く。
彼の未来は、まだ誰にも見えない。
けれど、二人の間に流れたその一瞬の沈黙が、確かに“始まり”を告げていた──