「お忙しいところ、および立てしてすみません」
「いえ、お久しぶりです」
二十数年ぶりに会った男性に、俺は軽く頭を下げた。
いつか呼び出されるのだろうと思っていた。
その思いはあの日から消えることがない。
遥が生まれ、遥の母である『|立花麗《たちばなうらら》』が亡くなった日、俺は心のどこかで覚悟をしていた。
「大きく、そして立派になりましたね」
「ええ」
きっと遥のことを言っているのだろうと相槌を打った。
親の目から見ても、遥はできた息子だと思う。
血のつながらない両親に育てられるという環境の中で、まっすぐ育ってくれた。
同い年の空の育児に陸仁が苦労しているのを見て、大きな反抗期を迎えることもなく成長する遥に物足りなさを感じることもあったが、自慢の息子であることに間違いはない。
「桜ノ宮のお母さんが亡くなった日、初めて遥くんに会って驚きました」
え?
俺は顔を上げ、正面に座る男性に目をやった。
「最初はマスクをしていて、その目元が麗そっくりで息をのみました」
「そう、ですか」
そりゃあ親子だから似ていて当然だろう。
「でも、マスクを外した口元と顎のラインは若いころの自分を見ているようで」
「・・・」
俺は言葉に詰まった。
目の前の彼、桜ノ宮創士は遥の父親。
遥の母親である麗は彼に妊娠を告げることなく出産し、遥の出産と引き換えに息を引き取った。
友人であった俺と琴子は麗の遺言で遥を引き取り育てることにした。
そのことを後悔するつもりはない。
ただ、
「あんなに立派に育てていただいて、ありがとうございます」
創士さんはテーブルにつくほど頭を下げた。
「・・・やめてください」
本当なら、「お前に礼を言われる覚えはない」と叫んでやりたい。
「遥は俺の子だと」怒鳴りたい。
でも、俺にはその資格がない。
***
都内の高級ホテルの一室。
立派な応接セットの置かれた部屋で、俺と創士さんは対面した。
呼び出されたのは俺で、場所も時間も指定され、正直断り切れずにやってきた。
「恨んでないんですか?」
心の中にあるわだかまりの一因を口にしてみる。
「いいえ」
創士さんはキッパリと答えた。
二十数年前、麗が妊娠したと聞かされて俺は少し説教をした。
子供の頃から家族ぐるみで付き合ってきた麗のことを妹のように思ってきた俺は「何で結婚もできないような相手の子を妊娠するんだ。無責任にもほどがある」と叱った。
もちろん麗が生むと言えば反対する気はなかったが、もろ手を挙げて喜んでやることはできなかった。
「私はどんなことがあってもこの子を産むわ。たとえ自分の命と引き換えになっても」
俺や両親の前で宣言した麗に随分大げさなことを言うなと笑ったが、その後麗の言葉が現実になってしまう。
検診のために言った病院で癌が見つかったのだ。
若いからこそ癌の進行も早くて、子供の命をとるか麗の治療をとるかの選択を迫られた。
普通だったらここで選ばれるべきは麗の命。
迷うはずもない状況なのに、麗は頑として譲らなかった。
「あいつは、ある意味過激な女でしたからね」
懐かしそうな顔をする創士さん。
「そうでしたね」
頑固で、強情な女性だった。
***
みんなで必死に麗を説得した。
「今回はあきらめても、また子供を授かることはできる」
「せっかく生まれても親がいなくて、子供はどうするのよ」
俺も琴子も両親たちも、何度も言った。
それでも、麗は聞かなかった。
結局親友の病院を紹介し、麗の出産は決まってしまう。
それは麗自身の命を奪うことと分かっていて、俺達は止めることができなかった。
病院へ入院し妊娠5ケ月を迎えたころ、
「ねえ賢兄、子供が生まれたら琴子と賢兄で育ててほしいの」
俺と琴子を呼び出した麗に言われ、固まった。
頭ではわかっていた。
麗の病気はかなり進行していて、子供の成長が先か麗の体が限界を迎えるのが先か、いつどうなってもおかしくない状態。無事子供が生まれても麗に育てることはできない。
それに、結婚して数年目の俺と琴子は初めての子を死産して以来子供に恵まれず不妊治療を続けているときだった。
「このままじゃ臨月まで母体が持たない。どれだけ頑張っても早産になる」
幼馴染であり医師である友人に言われ、体が震えた。
「当然のことだが、子供にもリスクはある。必ずしも元気で生まれるとは限らない」
それでも育てていけるのかと、聞かれた。
もう逃げ道はなかった。
目の前には生まれようとする命があって、命がけで生み出そうとする麗がいる。
俺も琴子も何度も何度も話をして、親になる決心をした。
***
「あの頃の僕は本当にひどい状態で、当時どうやって生きていたのかの記憶さえ曖昧なんです。すみません」
少しだけ自虐的に笑いながら、創士さんは頭を下げる。
「いえ、悪いのは俺です。当時は仕方がないにしても、その後の長い年月の中で遥の出生をあなたに知らせるべきだったのかもしれない」
「平石さん」
遥を引き取ると決めた時、俺は麗の交友関係についても調べた。
麗自身も口には出さなかったし世間的にも誰が父親なのかはわからなかったが、平石の力を使って調べればすぐに創士さんの名前が挙がってきた。
麗のモデル仲間で、長い付き合いの腐れ縁。
決して悪い人ではないと思うけれど、当時の彼はかなり危ない状態だった。
酒と借金とギャンブル。彼の生活はそれらがすべてを締めていた。
とても子供を育てられる状態ではない。麗の妊娠を告げるべきではない。俺はそう判断した。
「恨んではいません。当時の俺は麗を気遣う余裕すらなかった。かなり後になって、あなたと麗の主治医だった先生から『形見を預かっている』と言われ呼び出され、俺は初めて麗の死を知ったくらいですから」
「そうでしたね」
***
麗が亡くなって数年後。
俺は親友とともに創士さんを呼び出した。
「麗が亡くなる前に預かっていた形見の品を渡し最後の様子を伝えたい」そう言った俺の誘いに、創士さんは出向いてくれた。
その頃にはもう桜ノ宮の婿に入っていた創士さんは、別人のように立派になって元気になっていた。
本当はそこで遥の出生を伝えるべきだったんだ。
そのつもりで対面場所として選んだホテルに、遥も連れて行った。
このまま黙っているのは人としていけないことだと自分でもわかっていた。
しかし、神妙な面持ちで話を聞く創士さんの横で元気に走り回る遥を見て、俺は言い出せなかった。
たった1000グラム足らずで生まれた遥を俺も琴子も大切に育てていた。
小さくて体が弱くて人一倍手のかかる遥がかわいかった。
誰にも渡したくない。どんなことをしても守ってみせる。
同じ時間を過ごすごとにその思いは強くなっていった。
「あの時、どうしてお子さんを連れてきたんだろうと思ったんです」
「ですよね」
確かに、子供連れで行くような場ではなかった。
「でも、まさか、自分の子供だったなんて」
「すみません」
「いえ、文句を言っているわけではなくて」
困ったなあと創士さんが苦笑い。
創士さんに告げずに出産したのは麗の決断。
麗から託された遥を我が子として育てたのは俺と琴子の意志。
でも、思うんだ。
遥はそれを望むのか?
創士さんは我が子が存在することさえ知らされていなかった。
俺の行動はとんでもなく自己中で、わがままな物じゃないのかと。
「平石さん。いえ、賢介さんと呼ばせていただきます」
改まった口調になった創士さんが姿勢を正した。
***
「僕は、人生の日向も日蔭もどちらも歩いてきたつもりです。幸せだったのかと聞かれれば一言では答えられませんし、清く正しく生きてきたわけでもありません」
真っすぐに俺の目を見る創士さんはどこか気迫を感じさせる。
「酒や借金に溺れ自分を見失った過去はどんなにあがいても消えません。麗にも酷いことをしたと思っています」
「それは違います。麗はあなたを心から愛していたんです」
病床で病魔に蝕まれながら、麗はおなかの中の遥に話しかけていた。
「パパみたいな優しい人になってね」「パパみたいなかっこいい人になってね」
そう言っているのを俺は知っていた。
「僕も麗を愛していました」
少しだけ創士さんの声が震えた。
桜ノ宮のおばあさまが亡くなった日、俺は遥から創士さんに会ったと聞かされた。
「俺に似て性格の悪そうな人だった」
と笑った遥を
「そんなことを言うものじゃないっ」
と久しぶりに𠮟りつけた。
遥は俺の前で泣いた。
いつもは思いを胸に秘めて多くを語らない遥が、随分長い時間泣いて愚痴っていた。
俺は黙って遥の言葉を聞いた。
泣くだけ泣いて、いつもの遥に戻った。
それっきり創士さんのことを口にすることはなかった。
***
「賢介さん、改めてお礼申し上げます。麗が命と引き換えにして産み落とした命を大切に育てていただきありがとうございました」
一旦立ち上がり深々と頭を垂れた創士さん。
「やめてください」
俺も立ち上がって創士さんを止めた。
「どうしてもちゃんとお礼が言いたくて今日はここに来たんです。それに」
「それに?」
創士さんの言葉が止まって、俺も聞き返した。
「萌夏ちゃんと遥くんの今後について話をしたい」
そう言った創士さんは、桜の宮家当主の威厳ある顔に戻っていた。
そういえば遥も言っていた。
萌夏ちゃんを創士さんの養女として桜ノ宮家から嫁がせることを考えているらしいと。
そんなこと簡単にできるはずがないと笑ったが、本当だったんだな。
「麗との出会いが運命だったように、地獄をさまよっていた私を救ってくれたのは亡くなった妻と桜ノ宮の父母でした。ですからこそ、萌夏ちゃんを桜ノ宮の人間として嫁に出してあげたいんです」
「創士さん」
世間から必要以上に注目されることのないように、萌夏ちゃんがおもしろおかしくとりあげられることがないように、それでいてスムーズに養子縁組が整うように。創士さんはいくつもの根回しをして、すでに準備をしていた。
願うのは遥と萌夏ちゃんの幸せと、先代当主大全さんの幸せ。
そのためには桜の宮家の養女に迎えるのが一番いいと創士さんは話した。
「賢介さん、協力していただけますか?」
「ええ、もちろん」
創士さんはたまたま宮家に婿に入ったただのぼんくらじゃない。
この時になって、俺は初めて創士さんの本性を見た気がした。
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