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「日和美、今日は休みか?」
私服で……しかもこの長蛇の列の最後の最後に現れたということは、恐らくそういうことなんだろう。
いくら長いこと会えなかった信武のサイン会だからと言って、日和美が就業中にこういうことをするとは思えなかったから。
自分に今日休日だったことを教えてくれなかったのは、もしかしたら日和美なりのサプライズのつもりだったのかも知れない。
(あー、くそっ。……折角日和美が会いに来てくれたっちゅーのに……変に驚かせちまったじゃねぇかっ)
あらかじめ日和美が来ることを知っていたら、茉莉奈をどうにかすることだって出来たかも知れない。
今更なことを思いながら、それでも一応確認してみた信武に、日和美が心ここにあらずな雰囲気のままコクリとうなずくから。
信武はそれを踏まえた上で話を続けた。
「だったら……泊まれる準備してアパートで待っててくれ。色々片付け次第必ず迎えに行く」
呆然と立ち尽くしたままの日和美が、中途半端に差し出していた本を引っ手繰るようにして奪い取ると、信武はサインを走り書きして、頼まれてもいないのにその横へメッセージを添えた。
「泊ま、れる準備……?」
信武が本をパタリと閉じて差し戻したと同時、日和美がそれを受け取りながらポツンとつぶやくから。
「ああ、泊まりだ。今夜、俺ん家で全部ちゃんと説明すっから。って言うかさせろ」
強気にそこまで言ってみたものの、前にこんなことがあった時、日和美が弁解もさせてくれずに心を閉ざしたのを思い出してにわかに不安になった信武だ。
「その……間違っても前みたいにシャットアウトだけはしてくれるな? ……分かったな?」
それで声のトーンを低めて窺うような口調でそう懇願したら、日和美が寸の間逡巡してから。それでも「……分かりました」と言ってくれて。
信武はガラにもなく心底ホッとした。
一ファンへの対応とは明らかに違うそのやり取りの最中、茉莉奈が何も言ってこないところを見ると、彼女も目の前にいる日和美の正体を察してくれたんだろう。
決してファンの前で信武が〝俺〟と称することを許さなかったはずの茉莉奈が、黙って成り行きを見守ってくれていることがその何よりの証に思えた。
幸い日和美が最後尾に並んでいてくれたことも功を奏したに違いない。
これが、日和美の後ろにまだ別のファンが並んでいるような状況だったなら、例え相手がずっと長いこと信武が気にかけていた女性だと気が付いていても、茉莉奈は今みたいな私的なやり取りを絶対に許さなかったはずだ。
日和美がサイン本を胸に抱えて信武を不安そうな顔で見詰めてくるから。
信武は日和美に〝大丈夫だから〟とうなずいて見せる。
書いているとき、日和美が見ていたかどうかは分からないが、いま彼女に手渡したサイン本に書き添えた『お前のことが好きだ。俺を信じろ』と言うメッセージに嘘偽りはない。
***
サイン会を終えて、とりあえず締め切りの近かったものを集中して書き終えた信武は、茉莉奈に原稿を手渡しながら手を差しだした。
「――?」
キョトンとする茉莉奈へ、「鍵」と言ったら得心が言ったように「ああ」とつぶやかれた。
「サイン会の時見ただろ? 俺、あの子と真剣に付き合ってんだよ。だから――」
このマンションの鍵を――例え身内とは言え――茉莉奈が持っているのはマズイ。
そう言外に含めたら「もちろん返してもいいけど……金輪際連絡不通にして締め切りを破ったりしないって約束してくれる?」と鋭い目で見詰められた。
「もちろん事情は聞いてるし、束の間とは言え記憶喪失だったって言うのは不可抗力だったとも思う。――だけど」
そこで言葉を区切った茉莉奈は、信武と、彼の背後にある銀ラメの施された小さな六角形の箱を交互に見遣る。
「ルティシアが死んでしまったのが辛かったのは分かる。でも、携帯を置いて……原稿をおざなりにしたまま逃亡したことは許せない」
あの日、信武は愛犬ルティシアを失った悲しみから逃れたくて。
彼女の火葬を済ませるなり、あえて携帯電話など、柵になりそうなものを全て置いてふらりと家を出たのだ。
マンションの鍵すら持っていたくなくて、部屋を施錠した後、下のポストへ落として出た。
茉莉奈が持っている鍵はその時のもので、信武が今使っているのはスペアキー。
そんな風に身一つになった信武が向かった先は、しんどい時、ずっと自分の心の支えになってくれていた日和美の住まい。
今までは彼女の住んでいる場所が自分の家の近くだと知っていても、会いに行こうとまでは思わなかった。
そこには一応そこそこに人気のある作家として、越えてはいけない一線があると思っていたからだ。
下手に自分が動いて、普通に生活をしている日和美を自分の世界に巻き込みたくなかったというのもある。
立神信武は、作家としてはそれなりに顔を知られている人間で、自分の日本人離れした容姿が、良くも悪くも人目を引くことを信武自身ちゃんと自覚していたから。
だけど――。
ルティの死がその境界線をにじませた。
長いことずっと……。勝手に自分の心の支えにしてきた女の子と、ほんの少しだけ話が出来たらいい。
本当にそう思っただけだったのに。
まさかそこで事故に巻き込まれて、長いこと家に帰れなくなるとは思わなかった信武だ。
でも――。
それでもあの時間は自分にとってかけがえのないひと時だったし、日和美との関係が進展するきっかけになったことを思えば、あれで良かったんだとも思える。
だが、社会人としてみれば、何にも良くはなかったわけで。
家をふらりと出た時、せめてスマートフォンを手にしていればあんなに話がこじれることはなかった。
結局、すべては自分の不徳の致すところだ。
従姉のお姉ちゃんと言うより、作家・立神信武の担当編集者としての顔でじっとこちらを睨みつけてくる茉莉奈に、信武は心底申し訳ないことをしたと思って。
「……約束する」
そう言わざるを得なかった。
故意ではなかったとは言え、作家デビューをして初めて。雑誌の連載を落とし、発売間近だった単行本の原稿締め切りさえも脅かしたのはまぎれもない事実だ。
信武はその点について弁明する余地なんてないことを自分でも分かっていたから。
要らないことは一切言わず、茉莉奈にそう約束した。