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_りねっこ_
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近江龍彦が島で逮捕されてから、1年が経った。私たち双子は、表舞台から姿を消した。近江は、国外逃亡とサイバー犯罪で懲役15年の判決を受けた。彼の会社は倒産し、婚約者は別の国へ去った。私たちが最後に見た彼の目は、虚ろで、何も映していなかった。けれど、私たちの棘は抜けていない。
夜になると、雪絵はノートパソコンを開き、時折ダークウェブを覗く。新しいターゲットを探すわけではない。ただ、世界のどこかで「裏切り」が起きていないか、監視しているだけ。
そして私たちはSNSアカウントをすべて削除し、ペントハウスも手放した。フォロワーたちは「突然の引退」「謎の失踪」と噂したが、誰も真相を知らない。今、私たちは南仏の小さな村にいる。
朝はいつも、教会の鐘が7つを打つ音で目覚める。プロヴァンスの小さな村、人口三百人ほどの石の家々が並ぶ坂道の途中に、私たちの家はある。白い壁に赤い屋根、古い木の扉を開けると、すぐに小さな庭。そこに植えた白と紅の薔薇が、朝露を宿して静かに咲いている。雪絵は先に起きていることが多い。
白いリネンのワンピースに麦わら帽子をかぶり、庭の薔薇に水をやる。剪定ばさみを手に、枯れた葉を丁寧に取り除く姿は、まるで昔の母親のようだ。
「おはよう、紅子。今日もいい天気ね」
姉の声は柔らかく、朝の空気に溶けていく。私はキッチンで朝食の準備をする。地元のパン屋で買ったバゲット、近所の農家から届く新鮮なトマトとバジル、オリーブオイルをたっぷりかけて焼くだけ。コーヒーの香りが家に広がると、雪絵が庭から戻ってくる。
2人で小さな木のテーブルに座り、窓から差し込む陽光を浴びながら食べる。言葉は少ないけれど、沈黙が心地よい。
午前中はそれぞれの時間を過ごす。雪絵はアトリエ代わりの部屋で、水彩画を描くようになった。白いキャンバスに、淡い色で風景や薔薇を重ねていく。私は庭の奥のベンチで本を読むか、村のマルシェへ買い物に行く。村の人たちは私たちを「les sœurs japonaises(日本の姉妹)」と呼び、バゲットを多めにくれたり、新鮮なチーズを勧めてくれたりする。昼過ぎ、暑くなると家の中のカーテンを閉めて昼寝をする。
古い木の床がひんやりと気持ちいい。時折、雪絵が私の髪を梳いてくれる。昔と同じように、優しく、ゆっくりと。夕方になると、また庭に出る。二人で小さなテーブルに白ワインを置き、夕陽を見る。遠くの丘にラベンダー畑が紫に染まり、風がその香りを運んでくる。雪絵が静かに言う。
「紅子……ここに来てよかった」私は姉の手を取る。「ええ、誰も傷つかない」夜は星が降るように輝く。私たちはテラスで毛布にくるまり、空を見上げる。流れ星が1つ落ちると、雪絵が小さく笑う。
「願い事、した?」
「ううん。もう、欲しいものは全部あるから」
雪絵が私の肩に頭を預ける。双子の体温が、静かに重なる。庭の薔薇は、夜風に揺れながら、白と紅の花びらをそっと落とす。私たちの日常は、こんなふうに続いている。穏やかで、静かで、誰にも邪魔されない。棘は、心の奥に眠ったまま。もう、目覚めることはないだろう。南仏の村で、私たち双子は、ようやく、自分たちだけの花を咲かせている。