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「分かった」
そう言って槙野は足元のカバンから書類を取り出したのである。
それを美冬に向ける。
『婚姻生活に関する事柄についての契約』
真っ白な中にその文字だけ妙に浮き上がって見える。
美冬がそれに手を伸ばすと、槙野がその上に自分の手を置いた。
これでは見られない。
「なによ」
「その前に会社のことで伝えたいことがある」
美冬は槙野の顔を見た。槙野の顔はとても真剣なものだ。
「あの場にいた木崎さんという人なんだがな、エス・ケイ・アールと言う会社を知っているか?」
そう聞かれて美冬は即答する。
「知ってます!」
ミルヴェイユとコンセプトは違うけれど、大手のアパレル企業だ。
「木崎さんはエス・ケイ・アールの社長だ。うちはあまりそっち方面に詳しくないんで、この前はアドバイザーとして来てもらっていた」
だからいろいろ詳しかったのだ。
ミルヴェイユが高級路線なら、エス・ケイ・アールはいわゆるファストファッションを扱うブランドである。
『ケイエム』というそのブランドはファッションビルや、ショッピングモールでは必ずと言っていいほど見かける。
「あっちはお前とは真逆だな。彼女自身は一流ブランドに身を包んで、経営に関してはアグレッシブだ」
確かに美冬は自社ブランドに身を包み、経営に関しては保守的だ。
「ミルヴェイユ自体は業績はそれほど悪くない。この現状でそれはすごいことだ。けれど実際右肩に下がってきていることも間違いはない。原因は販路だ。窓口であるデパート全体での業績が下がればその影響を受けざるを得ない」
レストランの丸いテーブルで美冬の斜め横に座っている槙野は美冬を真っ直ぐ見つめながら話をしてくれていた。
真剣な気持ちが痛いくらいに伝わる。
悔しいけれど、それは槙野の言う通りなのだった。
いいものを作っていても販路がなければ意味がない。
ミルヴェイユとしてはネットも含めて販売チャネルを拡大中だ。
ネット販売はもはや店舗での売り上げをしのぐほどになっているけれど、それでもファストファッションほどの店舗展開は難しいのが現状だ。
「木崎さんから業務提携の話が来ている」
それはもちろん美冬にとって願ってもない話だった。
「この話を呑めば、業績が上向くことが予想されるし、こんなものは必要じゃなくなるかもしれない」
契約書の上で美冬の手を握ったまま、とんとん、と槙野はその紙を指でたたく。
社長を続ける条件は、結婚か業績改善なのだから。
槙野は業績が上向けば契約婚など必要ないんじゃないかと聞きたいのだ。
けれど美冬は今は、その手を……離してほしい。
「どうする?」
ずるくはないだろうか。
あんなキスをしておいて、こんな風に強引に手を握っておいて、それでいて美冬にこんなことを聞くのは。
「私も好みじゃない」
「は……?」
突然美冬が発した言葉に槙野は目を見開いている。
「方法論を聞かせろとか、最初すっごく怖かったわ。今も時々怖い」
美冬がそう言うと槙野は心当たりでもあるのか目を伏せた。
「悪かったな」
「でも槙野さんは裏表がないし、フェアだわ。それに不思議なんだけど、槙野さんには思ってることを言えるの」
「おお、ちょっと言いたい放題の時もあるがな」
「自分だって言いたい放題のくせに」
「ああ!?」
だから怖いってば!
それに手! いつまで握っているのよ。
「私の方は業績が改善したら問題が解決するとしても槙野さんの方の事情はどうなんです?」
「俺は……まあ、何とかする」
やっぱりこんな時の槙野は耳を垂れた大型犬のように見える。
「私には今好きな人はいなくて婚活もする気もありません。それに提携だって必ずしもうまくいくとは限らない。槙野さんは? 婚活されてるお時間あるんですか? 女性を口説き落としたりデートする時間が?」
「俺もそんな時間は確かにないな」
「じゃあ、やっぱりウィンウィンなのでは?」
それに、この大型犬を飼いならすのは悪くない。
槙野はそそけだったような顔で美冬を見た。
「お前! 今すっげー悪い顔してるぞ」
「えー? 気のせいだと思う」
悪魔か……という小声が聞こえる。
失礼な。
槙野はため息をついて、美冬の手を離し、髪をかきあげた。
「俺を相手にそこまでできるなら上等だ。契約書を確認してくれ」
そう言って美冬の方に再度、契約書をすうっと滑らせたのだった。
「分かったわ」
美冬はその契約書を手に取った。
『婚姻生活に関する事柄についての契約』
それをそっと開き目を通していく。
『家計負担の合意
結婚生活における合意
お互いの親族との付き合いの合意』
確かにはっきりさせておくことで、トラブルが回避できるような内容になっている。
『契約の見直しについて』
ふんふん……と美冬は書類に目を走らせてゆく。契約については1年ごとに見直すという文言もあった。