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鷹也の子がお腹にいる。そのことがわかった時、私は嬉しくてたまらなかった。
私たちは結ばれる運命じゃなかったけど、赤ちゃんを堕ろすなんて一ミリも考えられなかった。
祖母には一番に伝えた。
赤ちゃんの父親とは一夜の過ち結婚できないけど、どうしても生みたいのだと。
「一人で産んで育てるのは大変だよ」
「わかってる。でも会いたいの。私の赤ちゃんに……この子の顔がどうしても見たいの!」
「……はぁ……仕方のない子だね。そんな風に言われたら手伝うしかないじゃないか。ばあちゃんもいつまでも手伝えるわけじゃないけど、杏子のお腹の子の顔が見たくなったよ」
「おばあちゃん! ありがとう!」
祖母は私を応援してくれたけれど、父は違った。
「相手に話しもしないで生むなんて反対だ。お前はまだ若いんだ。一緒になれないような相手なら子供も……」
そこへ現れた救世主が知美さんだった。
「あなた! 何を言ってるんです? せっかく授かった命じゃないですか!」
「いや、でも――」
「杏子ちゃん、私じゃお母さん代わりにはなれないかもしれないけれど、母親業の先輩として何でも聞いて? それに……杏子ちゃんがお仕事する間、私が育ててもいいし」
「知美さん……」
「知美……」
「羨ましいわよ。もう一人欲しかったけど、ドクターストップがかかっちゃったし……。でも嬉しいわ! こんなに早く孫ができるなんて!」
知美さんは持病があって、もう一度妊娠出産をするのは勧められないと医師から言われていた。
「でも孫って……知美さんから見たら甥か姪くらいの感じじゃない?」
「甥っ子でも姪っ子でもどんとこいよ! あなた、楽しみね~!」
父が頭を抱えていた。
どちらかというと気弱な父に、よくこんな底なしに明るい若い嫁が来たものだ。
知美さんのこの陽気さはいつも私を救ってくれた。お母さんというには失礼な年齢差だけれど、大好きな義母なのだ。
こうして私は両親と祖母の協力の下、シングルマザーとしてひなを産んだ。
国立大学の工学部建築学科を卒業した私は、大手住宅メーカーに就職し、ひなを産む直前まで、施工管理者として現場監督をしていた。
正直なところ前代未聞だった。旧態依然とした住宅メーカーで、未婚で子供ができた上に現場監督を続けるなんて。
でも渋い顔をしていた会社側とは違い、現場の職人さん達は全く違う反応だった。
みんな超ビッグサイズの愛妻弁当を美味しそうに食べるお父さんばかりで、妊婦である私をとても気遣ってくれた。
9ヶ月で産休に入るまで、現場に居続けられたのは周りに支えられたからだ。
出産後、比較的早期に復帰できたのは、もちろんひなの面倒をみてくれた祖母と知美さんと叔母のおかげだった。
現在三歳三ヶ月になったひなは、保育園に通っている。
毎日くたくたになりながらお迎えに行っても「ママおかえり~」と保育室から迎え出てくれるひなの存在があるだけで幸せなのだ。
◇ ◇ ◇
大輝に送ってもらって、マンションに帰ってきた。
「杏子、俺しばらく泊まろうか?」
「大丈夫だよ。大輝だって忙しいじゃない」
一つ年下の大輝は大学病院で外科医をしている。週2回の当直があるし、緊急オペで呼び出されることもしょっちゅうだ。
気持ちは有り難いが、とても迷惑をかけられない。
「だだ、とまる? ひなとおふろはいる? ひなね、あわあわのおふろするの。ぶどうのにおいがするんだよー」
「おー、いいな。ぶどうの泡か。紫色か?」
「ううん、しろ。すっごくいいにおいなの。でもたべちゃダメなんだよ?」
「だだは大人だから食べないぞー。ひなもお腹が痛くなるからたべたらダメだぞ?」
ひなは小さいときから大輝のことを「だだ」と呼んでいる。
研修医の間も時間を見つけてはひなの面倒をみにきてくれていたので、とても懐いていた。
「ひな、だだはお仕事があるからね。また今度来てもらおう。土曜日とか日曜日がいいね」
名残惜しそうにしている二人だが、今日はまだ水曜日だ。
明日まで忌引きの私とは違って、大輝には仕事がある。
迷惑はかけられない。
「また今度当直のない週末に」と約束して、大輝は帰って行った。
用意しておいた塩でひなと私のお清めを済ませ、家に入る。
今日からひなと二人なんだ。
祖母は突然逝ってしまった。一昨日までとても元気だったのに……。
一昨日は近所のお寺の花まつりに行ったと言って楽しそうに話してくれたところだった。
お土産があるとか言って。
死因は脳卒中だったそうだ。
朝になっても起きてこない祖母の様子を見に行くと、もう息をしていなかった。
まだ温もりがあったから、息を引き取ったところだったのかしれなかったが、祖母の最期に気づけなかったことを今も悔やんでいる。
いっぱい有り難うって伝えたかったのに。
医師の話では、きっと苦しむことなく、寝ている間に息を引き取ったはずだと……。
祖母が苦しまなかったのなら、それだけが救いだと思う。
マンションには祖母の名残が溢れていた。まだ全く遺品の整理はできておらず、手つかずの状態だった。
フッと寂しさがこみ上げる。あんなに元気だった人が……。
「ママ~ねむい」
「わ、ダメダメ! ひなお風呂に入ろう?」
時計を見ると、もうすぐ七時だ。
ひなの就寝時刻はいつも夜の八時。でも今日はバタバタしていたからかなり疲れているのだろう。
感傷に浸っている暇なんてなかったわ。
「ひな、おばあちゃんが買ってきてくれたシャボン玉があるよ。お風呂でやってみる?」
「シャボンだま? やるー! ひなね、おっきなシャボンだまつくるの!」
ホッ。祖母が花まつりの縁日で買ってきてくれたひなへのお土産が役に立ったようだ。長風呂になっちゃいそうだけど仕方がない。
泡風呂は後の掃除が大変だから、シャボン玉で釣れて良かったわ。
それから大急ぎで喪服を脱ぎ、ひなをお風呂に入れた。
案の定、満足な大きさのシャボン玉ができるまで上がろうとしないひな。
根気よく待っている間に、こっちがのぼせそうだった。
八時を迎える前には、もうひなは夢の中だった。
一日が長かった。私も今日は早く休もう。
同居の祖母が亡くなったということで、就業規定通り明日まで忌引きをもらっている。
でも明日はやることがいっぱいだ。お休みをもらえている間に、祖母の遺品整理をしてしまうつもりだった。
「疲れたー……」
ふと食器棚を見ると、炊飯器とオーブントースターの間にカラフルな何かがあることに気づいた。
ダイニングテーブルの私が座る定位置から、真正面に見えるところだった。
近づいて手に取ってみると、それはどんぐり飴が入った可愛い瓶だった。
「これって……おばあちゃんが言ってた花まつりのお土産?」
そういえば「杏子には杏子の好きな飴買っておいたから」って言ってたような……。
すっかり忘れていたわ。ひなのシャボン玉セットだけだと思ってた。
そうそう、花まつりで幼馴染みに会ったって話もしていたっけ。
あれが最後の会話だったのに、もっとちゃんと聞いてあげれば良かった。
少し後悔しながら、私はその瓶の蓋を開けてみた。
ザラメをまぶした色とりどりの大きな飴は、昔から私の大好物だった。
心配性の父は、私が飲み込んでしまって喉を詰まらせないかハラハラしていたようだけど、祖母は気にせず与えてくれて、よく父と揉めていたな……。
懐かしく感じながら、一番上にあった淡いグリーンの飴を口に放り込んでみた。
その瞬間、よみがえる思い出。
それは鷹也と二人で行った縁日の……。
――――――そう思った瞬間、意識が離れた。