テラーノベル
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その部屋には、窓がない。正確には、厚手の遮光カーテンが一度も開けられたことがない。
部屋の主である「僕」にとって、世界を確認する手段は、玄関のドアに穿たれた小さな円形のレンズ、ドアスコープだけだった。
カチ、と廊下でヒールの音が止まる。
僕は吸い寄せられるように、冷たい鉄の扉に額を押し当てた。
レンズの向こう側。魚眼レンズが作り出す歪んだ円錐の世界に、彼女が立っている。
彼女は、僕がこの瞬間、レンズの裏側で呼吸を殺していることを完全に理解していた。
白い眼帯で片目を覆った彼女は、残されたもう一方の瞳を、まっすぐにこの「穴」へと向けてくる。
「……ねえ、今日は一度も外に出なかったでしょ」
扉越しに届く声は、まるで鼓膜を直接撫でるように甘く、鋭い。
彼女は僕の生活を、その細かな塵のひとつまで把握している。僕がいつ絶望し、いつ孤独に震え、いつ彼女の訪れを希求するか。そのすべてが、彼女の掌の上で転がされている。
彼女はゆっくりと指を伸ばし、ドアスコープを外側から指先でなぞった。
レンズの中では、彼女の指が巨大な怪物の触手のように膨らんで見える。
それは侵食の合図だった。
「君を守ってあげられるのは、私だけ。君を正しく観察して、形を保ってあげられるのも、私だけなんだよ」
その言葉を聞くたび、僕の心は安堵と恐怖で塗りつぶされる。
自分一人ではバラバラに崩れてしまいそうな僕を、彼女の「視線」という名の楔(くさび)が繋ぎ止めてくれている。
監視されているのではない。見てもらわなければ、僕は存在することさえ許されないのだ。
彼女はレンズに唇を寄せた。
歪んだ視界の中で、彼女の口元が三日月のように吊り上がる。
「いいよ、そのままそこにいて。私がずっと、君のことを見ててあげるから」
僕は震える手で、ドアの内側からそっとレンズをなぞり返した。
鉄の扉一枚を隔てた、決して交わらない指先。
それでも、この数ミリのガラス越しに、僕たちは世界で一番、歪で純粋な「ひとつ」になっていた。
明日も、その次も。 僕は彼女の視線の檻の中で、幸福に腐っていく。
コメント
2件
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