「そっか。お義父さんとお義母さん、ニューヨークに行っちゃうんだ」
寂しくなるねと言いながらも、偉央の様子はどこか嬉しそうに見えて。
結葉は偉央に熱々の玄米茶を注ぎ直しながら、何となくソワソワしてしまう。
「家はどうするのかな。結葉のトコのご実家、持ち家だったよね?」
いま結葉の両親が住んでいる家は、偉央が言った通り小林家の持ち家だ。
父・茂雄が、結葉が小学校に上がる年に「家族のために!」と気持ちを奮い立たせて建ててくれた注文住宅だ。
何となくだけど、幼い頃両親に連れられて住宅メーカーの人たちとの色々な打ち合わせに参加した記憶が、薄らと結葉の中にも残っている。
断片的にではあるけれど、自室の壁紙を選ばせてもらった覚えがあって、白地にパステル調の小花柄を散りばめた可愛らしい壁紙は、年齢を重ねてから見ると少しメルヘンチックが過ぎて気恥ずかしかった結葉だ。
けれど、子供の頃はお花畑にいるみたい!と思ってワクワクしたのを何となく覚えている。
建ててから20年ちょっと経ってしまったそこそこに古い家だけど、両親が常日頃から手間暇かけてしっかりケアしているお陰か、築年数の割には綺麗な家だと結葉は思う。
偉央の開いている『みしょう動物病院』みたいな、今どき風の西洋建築みたいな愛らしさはないけれど、それでもどこか大正ロマンな雰囲気を醸し出している実家の外観が、結葉は大好きだ。
何より、あの家は隣に優しい兄的存在の想が住んでいて、幼い頃から彼や妹の芹と遊んだ楽しい思い出ばかりが降り積もっている。
「お母さんたちは私たち夫婦に住んでもらいたいみたいなんですけど……。でも、無理なら……その……借家に出そうかって話になってて……」
人が住まないと家はどんどん傷む。
コンスタントに誰かに住んでもらえたら、と言う思いは両親のなかでは譲れないらしい。
結葉としては、住み慣れたあの家に戻れたら嬉しいなと思ってしまったし、もっと言えばあそこに見知らぬ誰かが住むと思うと、悲しいし落ち着かない。
「そっか。けど僕らが住むのは厳しいよね。ここだって賃貸ってわけじゃないし」
そう。結婚して割とすぐ。
みしょう動物病院のすぐ近くに新築されることになったこのタワーマンションの一室を、偉央は建つ前から目をつけていて。
それこそ販売が始まると同時に結葉の意見は殆ど聞いてくれないままに契約してしまった。
流されやすい結葉だったから喧嘩にならずに済んだのかもしれないけれど、今はもう連絡を取れなくされてしまった琳奈なんかは、「そんなのおかしいよ!」としきりに怒っていたのを覚えている。
「でも……お金を出してくださるのは偉央さんだから」
あんまりにもプンスカ怒る琳奈に、何故か偉央を庇わなければいけない気分になった結葉がそう言ったら、
「ねぇ結葉。そのお金は夫婦の共有財産だって分かってる? 結婚したらどっちが稼いだとか関係ないんだからね? それに――。そもそも結葉も一緒に住む家なんだから口出しする権利はあるはずでしょう? 何でもかんでも『はいはい』って言いなりになってたら段々そういうのが癖になって、いずれ後悔することになるかもしれないよ? そうなってからじゃ遅いんだから! しっかり言うべきことは言っていかないとダメだよ!? 分かった!?」
と叱られた。
(琳奈ちゃんの言った通りになっちゃった……)
今の結葉は偉央に口答えをするなんて考えられない状態になってしまっている。
偉央の方もきっと、結葉は自分に従って当然と思っているはずだ。
(でも――)
結葉は両親がそばに居てくれなくなる今、このままでいたらいけないと思うようになっていて。
夫婦なのだからいきなり対等……は難しくても、せめてある程度は自分の意見を述べられるようになりたい。
「あ、あのね、偉央さん。た、例えば……なんだけど……その、こ、このマンションを人に貸してあちらに私たちが移り住むとかは……」
「有り得ない」
しどろもどろになりながら何とか言いたいことを言おうとした結葉だったけれど、偉央は最後まで言わせてくれなかった。
「僕の職場はどこにある?」
聞かれて「こ、ここと……道路を挟んだ向かい側です」と答えれば「だよね? 利便性を考えたら結葉の実家とは比べ物にならないって分かるだろ? それに――」
そこまで言って偉央は手にしていた湯呑みをテーブルに置くと、結葉をひたと見据えた。
「結葉があっちの家にこだわるのはただ単に思い入れのある家だから? 本当に他意はない?」
「え?」
偉央が何を言いたいのか分からなくてキョトンとしたら、「山波想がいるからじゃないの?」と鋭い目で睨みつけられる。
「……想、ちゃん?」
まず第一に、偉央が想のフルネームを誦じていたことに驚かされて。
続けて想が隣に勤めているから戻りたいだなんて微塵も考えていなかった結葉は、偉央からの言葉にただただびっくりするばかりだった。
確かに想は結葉にとって小さい頃から大好きで……ずっとずっと片思いをしていた相手だ。
だけど――。
「偉央さんと結婚してからは私……想ちゃんとは一度も会っていません」
それどころか、電話で話したことすらないのに。
何より、結葉は偉央からのプロポーズを受けると決めた時に言ったはずなのだ。
――偉央さんのことが誰よりも好きです。私、偉央さんしか見えていません、と。
「僕も結葉のこと、信じたいんだよ――? でも……あの家に固執されたら疑いたくもなるじゃないか」
いつの間にかテーブル越し、身を乗り出すようにして伸ばされた偉央の手が、結葉の頬を輪郭をたどるようになぞっていて。
指の腹でやんわりと触れられているだけなはずなのに、何故か偉央の指が通った場所がピリピリと痛む気がして怖くなった結葉だ。
「……偉央、さ……」
思わず夫の名を呼ぶ声が震えて、偉央に目を眇められてしまった。
「結葉。やましいことがないなら、キミは何をそんなに怯えるの? そんな態度を取られたら、ひょっとして図星かな?って勘繰っちゃうんだけど――」
言われたと同時、グイッと腕を引かれて食卓の上に前のめりに引き倒された結葉は、不可抗力で机上にあった様々なものを薙ぎ倒してしまう。
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