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その中に、つい今し方偉央に淹れ直したばかりの熱々の玄米茶入りの湯呑みがあって。
コップが転がった拍子、偉央が咄嗟に結葉を庇って、彼の手に熱いお茶が掛かってしまった。
「――っ!! 偉央さっ!」
思わず悲鳴のような声を上げて起き上がると、偉央の手に触れようとした結葉だ。
でも偉央は、そんな結葉を、お構いなしに再度台上にひれ伏させるように押さえつけてきた。
「……結葉。僕は許さないからね? 僕以外の男の近くにキミが行くなんてこと――」
今まで実家に結葉をやれていたのは、家に美鳥や茂雄がいたからに他ならないのだと偉央が言って。
「誰もいなくなるあの家にキミを一人で近づけるとか……死んでもイヤだ」
言って、グイッと痛いぐらいに結葉の手首を掴んできた偉央の手は真っ赤になっていて、結葉はそれが気になって仕方がない。
「――偉央さっ、もう分かったのでっ。手! 火傷したところ、早く冷やしましょう!?」
偉央のことを怖いと思っていたのも忘れて、結葉は涙目で必死に訴えていた。
***
両親の引っ越しまでニ十日を切った頃、父・茂雄の有給休暇に合わせる形で実家に行きたいとお願いしたら、案外すんなり偉央が了承してくれた。
偉央の火傷の一件があってから、結葉は〝偉央とともに〟実家に住むという希望を捨てざるを得なくなってしまっていて。
両親には偉央の職場への利便性などを考えると私たちは実家には住めそうにないと当たり障りのない理由を伝えてある。
偉央が結葉の実家に住みたくない本当の理由は、想が隣に出入りしているからなのだが、それは敢えて伝える必要がないと判断して言わなかった結葉だ。
そんなことを言ったら、両親に変な心配をかけてしまうかもしれないと思ったから。
もちろん、想のことは今でも頼り甲斐のある大好きな幼なじみだとは思っている。
ふとした時に、「偉央さんとのことを想ちゃんに相談出来たら」と思わないこともないけれど、結婚した身の結葉としては、自分にとって最優先すべき相手は偉央しかいないことも理解しているつもりだ。
だから、偉央が望まないことをするのはタブー。
それに、大学卒業を機に実家に戻ってきた芹とは違い、想はまだアパートから実家には戻っていないと風の噂で聞いている結葉だ。
きっと自分が偉央と結婚するきっかけになった彼女との交際が順調か、もしくは別の彼女と仲良くしているんだろう。
そんな想に、幼なじみだからと自分が連絡を取ることは、想にとっても、彼の彼女さんにとってもきっと迷惑に違いないと思っている。
結局、結婚してからの結葉が気持ちを整理するために会話できていた相手は、両親の他だと琳奈を始めとした同性の友人たち数名のみで。
その子たちも、結葉自身の不手際で一人、また一人と偉央にブロックされて行った結果、気が付けば誰もいなくなってしまっていた。
もうじき、両親の引越しで結葉の相談相手はゼロになってしまう。
結葉は一度だけ偉央に、相談相手がいなくなる不安を(偉央とのことが主な心配事だとは告げずに)、やんわりとオブラートに包んで伝えてみたことがある。
「お父さんとお母さんが遠くに行ってしまったら私、困ったことがあった時に相談できる相手がいなくなっちゃうなって思ってて……。それで……」
「不安なんだね」
偉央に優しく頭を撫でられて、結葉としてはそのまま彼に、「だから琳奈ちゃんたちと再度連絡を取り合うことを許して欲しいんです」と続けたかったのだけど――。
「気づかなくてごめんね。――僕が今まで以上に努力して、結葉の話し相手になるようにするから。それでいいよね?」
と畳み掛けられて、「ごめんなさい。――ご迷惑をお掛けします」と答えるしかない雰囲気にされてしまった。
結局結葉は、じきに唯一のガス抜きの相手である両親がいなくなるというのに、何の手立ても講じられないままに今日まで来てしまったのだ。
***
「ごめんね、お母さん、お父さん。私たち夫婦がここに住めたら良かったんだけど……」
自分たちが移り住むことは出来ない、と初めて伝えた瞬間はひどく残念がらせてしまった母・美鳥だったけれど、結葉の説明ももっともだと思ったらしい。
「通勤っていうのは意外に労力を削られるからな。あの立地じゃ、偉央くんのことを考えたらおいそれとは動けんの、父さんも分かるよ」
何十年もずっと勤め人をしてきた茂雄の言葉も後押しして、思ったほどごねられることもなく実家に住めないことを了承してもらえたことに、結葉はホッと胸を撫で下ろした。
今日は茂雄も一緒だから、独身時代毎日夕飯のたびにそうしていたように、ダイニングテーブルに家族水入らずで座って、美鳥が淹れてくれたコーヒーを飲みながら談笑している。
平日なので、偉央は昼休みに結葉をここまで送り届けてくれたあと、いつも通り夕方に迎えに来る旨を告げて病院に戻って行った。
ただ、いつもと違うのは、診察後に一件、新しく搬入することになった医療器具のことで業者が来ることになっていて、いつもより迎えが遅くなるということだった。
「ついでだから夕飯もご両親と食べてくるといいよ」
でも、と言い募ろうとした結葉に、偉央が「これからそういう事、おいそれとは出来なくなるんだから、――ね?」と言ってくれて。
偉央は「自分の夕飯のことも、気にしなくていいよ」とも言ってくれたけれど、さすがにそれは出来なかった結葉だ。
午前中のうちに偉央のためだけにいくつかのおかずをこしらえて、いま、実家に来ている。
(マンションに戻ってくる時は偉央さんと一緒だし、彼がお風呂に入っている間に最後の仕上げをして温かい料理を出せるようにしておこう)
そう思って、味が染み込むように最後までしっかり仕上げた煮物などとは別に、下処理までを済ませた鶏もも肉が、火を通さないままに冷蔵庫に入れてある。
***
「――で、この家はどうすることになったの?」
ふとそのことを聞いていなかったと思い出した結葉が、コーヒーカップをソーサーに戻しながらそう問いかけたと同時――。
ピンポーン……とチャイムが鳴って、美鳥がいそいそと立ち上がる。
宅配か何かが来たのかな?とそんな美鳥の後ろ姿を見送った結葉だったけれど――。
「公宣さん、お忙しいのにお呼び立てしてしまってごめんなさいね」
という声が玄関先から聞こえてきて、結葉はドキッとしてしまう。
公宣、といえば想と芹の父親の名前だったからだ。
「呼び立てるも何も。お隣じゃないですか」
廊下を歩く足音とともに、そんな声が聞こえて来て、結葉の心臓はドキドキと忙しなく鼓動を刻む。
別に想が来たわけではないのに、偉央に無断で両親以外の人間と会うことを、とても後ろめたく感じてしまった結葉だ。
偉央がおかしくなってしまったきっかけだって、偶然同級生の男の子たちと出会って合流してしまったことだったのを思い出す。
(でも……公宣さんは既婚者だし……うちの両親と同年代だから……きっと大丈夫、だよ、ね?)
結葉はそう思って、必死に気持ちを落ち着けようとした。
なのに――。
「それにこちらこそ勝手に倅まで連れて来てしまって」
そこでガチャリとリビングのドアが開いて――。
「想……ちゃんっ」
美鳥の後ろ、公宣より頭ひとつ分背が高いからすぐに見えてしまった相手に、結葉は思わず席を立ってしまっていた。