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花吐き病×ルールシェア「この部屋で、咲いた花」 ~m×k~
Side康二
気がつけば、朝がまた来てた。
カーテンの隙間から差し込む光が眩しゅうて、思わず目ぇ細めたけど、ゆっくり寝てる場合ちゃう。今日はロケに、ラジオ収録に、夜にはグループのYouTube撮影。最近、毎日がこんな感じや。
……まぁ、それもしゃあない。
某アイドルグループとして、うちらの人気が出てきたんはほんまつい最近のことやけど、SNSやYouTubeに本気で力入れ始めてから、数字が目に見えて伸びた。スタッフさんの表情も変わってきたし、世間の空気もなんかちゃう。
「やっと、こっち向いてもらえたな」
そんな気持ちが、心の奥でずっとじんわりしてる。
俺は、グループのお笑い担当。場の空気を和ませたり、ちょっとスベってでも笑いを取りにいったり。せやけどそれって、ただの盛り上げ役やのうて、“必要とされてる”ってことやと思いたい。
笑わせること、和ませること。それが俺の役割やって、勝手に決めて、勝手に誇りにしとる。
そして今日もまた、走らなあかん。俺の場所を、守るために。
……と思ってたのに。
まさか、こんな形で足元すくわれるとはな。
「え? 更新……?」
耳を疑った。目の前の大家さんは、申し訳なさそうな顔でこっち見てるけど、言うてることはめちゃくちゃやばい。
「ごめんねぇ、康二くん。もう次の入居の人、決まっちゃっててね」
「ちょ、待ってください! そんなん、聞いてないですやん……!」
慌てて部屋に戻って、郵便物の山をひっくり返す。ダイレクトメール、フリーペーパー、通販の不在票、そして――
「あっ……これ……」
手の震える指先で、その一通の封筒を開けた。
中にはしっかりと「契約更新のお知らせ」と書かれた書類。
消印は、三週間前。
「……あああ……俺、完全に見落としてた……!」
頭の中が真っ白になった。汗が背中を伝って落ちる。
心臓がバクバク言うてるのに、頭の中は空っぽ。最悪や。
大家さんの言葉が、後からじわじわ追い打ちをかけてくる。
「悪いけど、あと一ヶ月で出て行ってね。ほんと、ごめんね?」
……ごめんね、やないねん。
一ヶ月後って、俺、どこで寝たらええんや……?
ポカンとしたまま立ち尽くして、俺は人生で一番焦ってたかもしれへん。
――――――――――
「なあ、ちょっと、聞いてほしいことあんねんけど……」
いつもどおりワイワイしてた楽屋の空気が、俺の声で一瞬だけ止まった。
みんなそれぞれスマホいじったり、ストレッチしたりしてたけど、ぽつぽつと顔が上がる。
「どうしたの、康二?」
「珍しく真面目な顔してるじゃん」
「……実はな、アパート、出て行かなあかんようになってもうて」
「え?」
「どういうこと?」
俺は、昨日のハプニングをそのまま話した。契約更新を忘れてて、次の入居者も決まってて、あと一ヶ月で出て行かなあかんって言われたこと。
「うわ、それはヤバいね」
とラウール。
「更新忘れてたって……忙しかったから?」
とふっかさん。
「いや、完全に俺のミスや……ほんま、情けないわ」
「で、次の部屋は?」
「まだ全然……ネット見てるけど、即入居とか条件合うとこ、全然空いてへんねん」
シーンとした楽屋に、誰かのペットボトルを置く音が響いた。
「……一旦さ、誰かの家でルームシェアするってのは?」
と静かに口を開いたのは、しょっぴーやった。
「え?」
「すぐにいい部屋見つけるのって大変でしょ。だったら、一時的にでも、誰かんちで一緒に住んだら? 康二、そんなに物多くないし、迷惑ってほどでもないと思うけど」
「それええな……!って、でも、迷惑ちゃう? 男ふたりとか……気ぃ遣うやろ」
「それは康二のキャラ次第」
「お前はどこでも馴染むから大丈夫でしょ」
「うーん……誰んちがいいかな」
「うち、今ちょっと荷物多くて無理かも」
「俺んとこも狭いからなぁ」
言葉は優しいけど、なんとなく“厳しいかも”な雰囲気が漂ってる。
そらそうや、自分の生活に他人が入るって、簡単な話ちゃうもんな。
そんな中で、ぽつりと誰かが言った。
「環境的に言えば……めめの家がいちばん合ってるんじゃない?」
その言葉に、楽屋の空気がまた静かになる。何人かの視線が、一斉に彼に向けられる。
飲みかけのペットボトルを手にしたまま、彼は少し眉を上げて反応する。
「……俺?」
誰かが小さく笑う。
「まあ、広いし静かだし。お前、あんまり細かいこと気にしないしさ」
数秒の沈黙のあと、視線を浴びた彼は、ふっと笑って言った。
「うーん。別にいいよ」
さらっとしたその一言に、部屋の空気が一気にゆるむ。
「ほんまに!? ほんまにええの!?」
思わず声を上げた康二に、彼は柔らかい笑みを浮かべたまま、軽くうなずく。
「うん。別に困ることもないし。荷物そんな多くないんでしょ?」
「うわ……助かるわ……ほんま、命の恩人や……!」
顔をぱぁっと明るくする康二を見て、周囲からもクスクスと笑いが漏れる。
「良かったじゃん、康二」
「めめ優しいな〜」
「意外と面倒見いいもんね」
「おい、意外とってなんやねん!」
と俺がツッコみ、みんながまた笑い声をあげた。
こうして、しばらくの間の“ふたり暮らし”が、静かに決まった――。
―――――――――
引っ越しって言うても、実際には段ボール三つとスーツケースひとつ。
仕事道具と最低限の衣類に、あとはノートと読みかけの本。部屋にあったお気に入りのマグカップも、わざわざ新聞紙にくるんで詰めた。
「これだけやけど……ほんまに、ええんかな」
誰に言うでもなく、ぽつりとつぶやいた。
めめが「いいよ」って言ってくれたあの日から、心のどこかがふわふわしてた。
ありがたい気持ちと、ちょっとした緊張と……それと、なんやろ。
小さくて説明のつかへん気持ちが、胸の奥に残ってる。
タクシーの後部座席から見えたのは、どっしりとしたマンション。
高すぎず低すぎず、無駄のない、けどちゃんと落ち着いた外観。
めめが「住みやすいからここにした」って言ってた理由、わかる気がした。
ピンポンを押すと、すぐに「はーい」っていう声が返ってくる。
なんか、ちょっと緊張した。仕事じゃない“めめ”と向き合うの、初めてかもしれん。
玄関のドアがゆっくり開いて、そこにいたのは、オフの服装でラフな表情のめめやった。
白いTシャツに、黒いスウェット。髪はラフにセットしてあるだけ。
ステージや撮影のときの彼とは、どこか違う。けど、そのギャップが妙にリアルで、ちょっとだけドキッとした。
「お疲れ。荷物、それで全部?」
「うん。これで終わりや」
「思ったより少ないね。ほんとに一人分?」
「最低限にした。あんまり邪魔したないからな」
「ふふ。気ぃ遣いすぎ」
めめがにこっと笑って、ドアを大きく開けてくれた。
そのまま中に足を踏み入れると、ほのかに柑橘系の香りがした。
広すぎず、でも整えられたリビング。壁にかけられたモノクロのアートポスター。テレビの横には観葉植物が一つ。無機質な空間のなかに、ちゃんと“彼らしさ”がある。
「とりあえず、荷物はこの部屋に置いといて。ベッドはないけど、寝具一式は買っといたから、今日から使って」
案内された部屋はシンプルで、でも空気がよく通っていて居心地がよかった。
窓際にちょっとした折りたたみ机と、フロアランプが置かれている。
誰もいなかったはずの空間に、俺の居場所がぽんと用意されてることが、なんか……じんときた。
「ほんまに……ありがとうな、めめ」
「お礼はいいよ。お互い忙しいし、家ぐらい落ち着ける場所にしよ」
そう言ってくれた声が、あったかかった。
背中に少し汗がにじんでいたのは、たぶん気温のせいやなくて、安心したせいやと思う。
そのあとふたりで簡単なルールを決めた。
お風呂は帰宅時間によって交代制、洗濯は別々、ご飯は基本自由。でも、どっちかが作ったときは遠慮せず一緒に食べようって。
決めごとは最低限。でも、ちゃんと“ふたり”の生活のリズムがそこにある感じがした。
夜、荷物をだいたい整理して、リビングのソファに腰かけたら、めめが冷蔵庫から缶コーヒーを二本持ってきた。
無言で一本渡してくれて、ふたりで缶を開けた。
「変な感じやな……こうして一緒に住むって」
「うん。でも、悪くない」
その言葉が、妙に胸に響いた。
ああ、俺、今ちょっと……幸せかもしれん。
――――――――――
ルームシェア生活が始まって、一週間。
朝起きて、「おはよう」を交わす相手がすぐ隣にいるって、こんなに空気が違うもんなんやなって、実感してた。
仕事で会うときのめめは、いつもきっちりしてて、静かで、余計なことは言わへんし、無駄のない動きしかしないイメージやった。言葉も選ぶし、立ち居振る舞いが落ち着いてて、ちょっとした緊張感すらあるくらい。カメラが回ってようが回ってまいが、めめはめめ、って感じで。
けど――
「……あれ?」
帰ってきてリビングに入ったとき、ソファの端にぐしゃっと置かれたグレーのパーカーが目に入った。
その横には、黒いジャージのズボン。まだあったかさが残ってそうな感じで、くったりと床に崩れてる。
その日は撮影が長引いて、めめのほうが早く帰ってた。
玄関に彼のスニーカーが無造作に脱ぎっぱなしになってたから、ああ、先に帰ってきてるんやな、とは思ってたけど。
ソファの向こうでは、当の本人がアイスを食べながら、スマホ片手に動画を見てる。
足はちゃっかりローテーブルに乗せたまま。髪は半乾きで、前髪が少しおでこに貼りついてる。
「なあ、これ……脱いだまんまやで」
と声をかけても、ちらっとこっちを見て「あ、ごめん。あとでやるわ」って気の抜けた返事が返ってくるだけ。
なんやろ。
こんな、ちょっとだらしないめめ、初めて見た。
でも不思議と、イヤやとは思わんかった。
「……しゃーないな」
小さくため息ついて、ソファ脇の服を拾って畳んで、寝室前のかごに入れる。
床に落ちてた靴下は、洗濯機の前のバスケットへ。
テーブルの上に散らかってたコンビニのレシートやお菓子の空き袋も、さっとまとめてゴミ箱に入れた。
それをめめは見てたのか見てなかったのか、アイスの棒を口から抜いて「助かるー」とだけ言った。
……いや、ほんま助かってへんやろ、それ。
けど、口元はちょっとゆるんでた。
こっちが文句を言わへんのを見越して、素で甘えてるみたいな感じ。
“めめ”って、もっとしっかりしてて、完璧に見えてたけど、実際は案外こういう部分もあるんやって知ったとき、ちょっとだけ胸の奥があったかくなった。
そういう“気の抜けためめ”に触れるたび、俺だけが知ってる秘密をもらったような気持ちになる。
誰も知らん場所で、誰も見てへん顔。
それを見つけたとき、思った以上に嬉しくて――
俺、こういうの、けっこう好きなんやなって、自分でも驚いた。
昔から誰かの世話するの、そんなに苦じゃなかった。
面倒見がいいとか言われるとこそばゆいけど、人の生活のリズムに寄り添うのって、なんか落ち着く。
誰かの“帰る場所”を整えるのが、性に合ってるんやろな。
そして今、めめの生活の一部に、俺が入り込んでる。
それを、ちゃんと感じられることが、なんや心地よかった。
この生活、意外と俺に合ってるのかもしれん――そう思いながら、ふとリビングの隅に目をやったときやった。
「……ところでやけど、気になっとってん。あれ、何?」
ぽんと指さした先、部屋の一角に、妙に存在感のあるスペースがあった。
低めのラックが二段、その上には色とりどりのパッケージがびっしり並んでて、手前にはちっちゃい看板。手書きの文字で、こう書かれてた。
《駄菓子屋コーナー》
「……いやいや、駄菓子屋て。なんなん、この世界観」
思わず苦笑いしてると、めめがぴょこんとソファの背にもたれながら振り返った。
「ん? ああ、それ? ここ、俺の駄菓子屋コーナー」
声のトーンがちょっと上がってて、まるで子供が宝箱を見せるときみたいな顔してる。
「駄菓子屋コーナーって……自分で作ったん?」
「そう。懐かしいやつとか、地方限定のとか、ちょこちょこ集めててさ。あそこ見ると落ち着くんだよね」
めめはそう言って、すっと立ち上がると嬉しそうにそのコーナーへ向かった。
そして誇らしげに、一本のうまい棒を手に取ってひらひらさせる。
「これ、最近のお気に入り。期間限定の明太チーズ味。食べてみる?」
「えぇ……なんでそんなバリエーション知ってんねん……」
正直、ちょっと引くくらいにきっちり並べられたお菓子たち。
グミやラムネ、チョコ、スナック系まで種類は幅広く、ひとつひとつが絶妙な角度で置かれていて、まるで小さなショップみたいやった。
しかも、その下にはきれいに畳まれた紙袋や、ポイントカード風の手作りカードまで並べられてる。
……いや、めっちゃこだわってるやん。
「服はそこらへんに脱ぎ捨てるくせに、こっちはめっちゃ整ってるな」
「そこは別。生活と、趣味は別物だから」
あっさり返された言葉に、思わず笑ってしまった。
めめって、そういうとこある。完璧やない、ちょっと抜けてる。
けど、大事なことにはとことん真剣で、好きなものにはめちゃくちゃ一直線。
そのアンバランスさが面白くて、ますます目が離せへんくなる。
「ほんま、変わった奴やなぁ……」
そうつぶやいた声は、もはや笑い混じりやった。
生活の中に、少しずつ溶け込んでいく彼の“素”。
それをひとつずつ見つけるたびに、胸の奥がじんわりと温もる。
この人と暮らすって、こういうことなんやなって、少しずつ実感してきた頃やった。
「これ、当たりつきなんだよ」
そう言って、めめが駄菓子屋コーナーからひょいと小さなチョコ菓子を渡してきた。
表面がキラキラした銀紙に包まれていて、ちょっと角ばったその形に見覚えがある。
小学生の頃、駄菓子屋で一度に三個くらい買って、当たりが出るたびにテンション上がってた、あの懐かしいやつや。
「くじ付きとか、いつの時代の話やねん」
笑いながら受け取ると、めめはちょっと得意げな顔で言った。
「当たり出たら、もう一本あげるから」
「ほんまに? お店の人みたいやな」
「俺、ここの店長だから」
その言いっぷりに思わず吹き出しながら、銀紙をペリペリとめくって、くじの面をそっと見てみる。
そこに、見慣れた文字があった。
『あたり』
「……うわ、当たった!」
「マジで?」
「見て見て、ほんまやで! 当たりや!」
紙をめめに見せると、彼は「すごっ」と笑って、もうひとつ別のチョコを手渡してくれた。
「ほら、約束だから。店長、ちゃんと守るよ」
その手が自然で、優しくて。
なんやろ、そんなたわいないやり取りが、妙に嬉しい。
「やっぱ、子供んときと変わらんな、こういうの当たるとテンション上がるわ」
「わかる。俺も昨日、自分で開けて当たって喜んでた」
「一人で何してんねん……」
ふたりでくすくす笑いながら、ほんのちょっとだけ肩が触れた。
なのに、そのぬくもりが長く残る。
斜め横で笑ってるめめを、ふと横目で見た。
柔らかい髪。すっと通った鼻筋。つり目気味の瞳が、笑うとふわっと優しくなる。
この家に住みはじめてから、こうして“素のめめ”を見る機会が増えたけど、やっぱり――
『あぁ、めめってかっこいだけじゃなくて可愛いんやな』
心の中で、ぽつりとそう思った。
声に出すのは、なんかちょっと照れくさい。
でも、自然と出てきた感情やった。
カメラ越しじゃない、仕事モードでもない。
今、ここにいるのは、俺とめめのふたりだけの時間。
そんな空間の中で、笑い合ってるこの瞬間が、なんとも言えんくらい心地よかった。
当たりが出た駄菓子みたいに、今日のこの一瞬も、ちょっとだけ特別な“あたり”やったんかもしれへん。
――――――――――
夜、舘さんと楽屋のソファにふたり並んで座っていた。
収録が一段落した後の、気の抜けたような、でも心地よい時間。
テレビでは、めめが出演した最新のバラエティ番組が流れていた。
画面の中で笑っていたのは、いつものめめやった。
落ち着いたトーンで、的確にコメントして、時々ツッコミを入れて、笑いを誘う。
それは俺が知ってる“テレビ用のめめ”で、プロとして完璧な姿。
けど、その隣には、キレイな女優さんがいた。
最近めっきりバラエティにも出るようになってきた、人気急上昇中の女優。
つやつやした髪、透明感のある声、やわらかい雰囲気。
めめと並ぶと、絵になるふたりやなと思った。――思いたかった。
「お、これ昨日の収録か。目黒、がっつり絡んでるな」
隣に座ってた舘さんがぼそりとつぶやく。
俺は返事をするふりをしながら、無言で画面を見つめていた。
―――――笑ってる。
めめが、女優さんの何気ない一言にちょっと照れたような笑顔を見せて、会話が弾んでる。
彼女の肩に軽くツッコミを入れて、そのあとすぐにふたりで目が合って、また笑う。
“絵になる”なんてもんちゃうやろ。
自然で、息が合ってて、まるで元からそういう関係のふたりみたいや。
胸の奥で、なにかがチクリとした。
小さいけど、確実にそこにある感情。
言葉にすれば、なんやろ……嫉妬? それとも、不安?
「あの女優さんと目黒。これで共演何回目だろ?なんか空気感、合ってよね」
舘さんがそんなことを何気なく言ったとき、俺は無理やり笑った。
「せやな、ええコンビやわ」
口ではそう言いながら、心の中はざわざわしてた。
ふたりが並んで笑ってる画面が、なんや遠く感じた。
あれ、うちで一緒に過ごしてるときのめめと、違う気がする。
……でも、もしかして、こっちが“本当”の彼なんかなって、そんなことまで頭をよぎった。
あの笑顔は、俺には向けられへん種類のもんなんかもしれん。
俺とおるときには見せたことない、柔らかい目とか、照れた声とか――
そんなこと、考えたくないのに、自然と心の隅に張りついて離れへんかった。
なんでやろ。
俺らはただのメンバーやのに。たまたま同じ部屋に住んでるだけの関係やのに。
それ以上でも以下でもないのに。
それでも、こうして何でもないテレビのワンシーンに胸がざわつくのは、なんでやろ。
俺、何を期待してたんやろな。
家ではあんなにだらしなくて、駄菓子コーナーに夢中な子供みたいなめめが、女優さんの前ではあんな顔するんやって、ただそれだけのことで、こんなにも胸がチクチクする。
画面が切り替わって、笑い声がフェードアウトしていく。
それでも俺の中では、さっきの笑顔がずっと残ってて、消えへんかった。
缶コーヒーをひとくち飲む。冷たくて、どこか苦くて。
心の中のざらつきと、妙にリンクしてた。
舘さんが何か別の話を振ってきたけど、正直、内容は入ってこんかった。
――――――――――
玄関の扉を閉めた瞬間、ふっと静寂が押し寄せてきた。
「……ただいま」
小さく声に出してみるけど、返ってくるのは何の音もしない空気だけ。
リビングの照明はつけていなかった。薄暗い廊下をそのまま抜けて、部屋の中に足を踏み入れる。
壁に寄りかかるように置かれた傘立て、コンビニの袋がそのまま置かれたテーブル。
そこに、いつもの“生活”はあったのに――不思議と、少し寂しく感じた。
「めめ、まだ帰ってへんのかな……」
つぶやいた言葉がやけに響いた。
普段はただの独り言。それが今日は、どこかぽっかり空いた空間に落ちていく感じがして、胸の奥に小さくひっかかった。
荷物を置いて、リビングのソファに腰を落とす。
テレビをつけようかとも思ったけど、指が動かへん。
代わりに、脳裏に勝手に浮かんできたのは――あの笑顔やった。
今日、楽屋で見た番組の一幕。
画面越しのめめ。あの女優さんと、肩を寄せて笑ってた横顔。
柔らかくて、楽しそうで、あったかそうで……俺には見せたことのない笑顔。
それを思い出した瞬間、胸の奥がぎゅっと絞られるような感覚に襲われた。
「……っ、あかん……」
気づけば、胃のあたりがぐらりと揺れていた。
吐き気――そんなに重たい夕飯でもなかったはずやのに、急に込み上げてくるような、説明のつかへん感覚。
「っ……うっ……!」
身体が勝手に駆け出していた。リビングを飛び出して、洗面所のドアを押し開け、トイレの便座を跳ね上げる。
膝をついた瞬間、喉の奥から込み上げてくるものに身を任せるように――思いきり、吐いた。
ゴホッ、ゴホッ――
喉を焼くような刺激とともに、何かが口から出ていく感覚。
ただの胃液じゃない。苦しみとともに吐き出されたそれは――
……花、やった。
小さな、淡いピンク色の花びらが、便器の底にふわりと落ちていた。
何枚かは重なって、咲く寸前のつぼみのような形をしていた。
湿った空気の中で、信じられないくらいきれいに、静かに、そこにあった。
「……え……」
声が出たのかどうかさえ、わからへんかった。
視界がじんわりと滲んでくる。頭の中が真っ白で、思考が止まる。
自分の口から、花。どうして。なんで、こんなことが。
「なんなん、これ……なんなんや……」
問いかけても、返事なんかあるはずもない。
ただただ、身体が震えていた。
冷たい床に手をついて、荒い呼吸を繰り返しながら、視線の先にある花をじっと見つめたまま――動けなかった。
これが一体なんなのか。そして、どうして自分が、こんなものを吐いてるのか。
わからないことだらけのまま、はただ、ひとり。
茫然としたまま、静かなトイレの中に座り込んでいた。
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