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83 ◇戻ってきてほしい
「でも……もう40も過ぎていて、ここでの仕事は体が辛いだろ?
家に戻れば、もう無理して働くことはない。
家のことだけして、ゆったりと暮らせるんだ」
そんなふうに秀雄からやさしく今後の生活について促され……雅代は目を
伏せた。確かに体は辛い。
仕事を終えたばかりの足は鉛のように重いし、酷く疲れている。
けれど、ただ『戻る』と言ってしまえば、自分が負けるようで嫌だった。
『家に戻れば、もう無理して働くことはない。
家のことだけして、ゆったりと暮らせるんだ』
秀雄の言葉は、今の疲れ切った身体でいる雅代にとって、酷く甘美な囁きと
なって耳に届いた。
理性と肉体のせめぎあいが始まる。
「……分からない。そんなふうに言われても、すぐには決められない」
「……いいんだ。今日すぐに返事がほしかったわけじゃない。
だけど、考えてみてほしい。
俺は、本気でおまえに戻ってきてほしいと思ってる」
秀雄の『戻ってきてほしいと……』と話をしているところでふいに薫風が吹き
遠くから汽笛の音が聞こえた。
「今夜は駅近くの旅館に泊まる。明日には適当な時間に帰るつもりだ。
気持ちが決まったら手紙で知らせてほしい。迎えに来るから」
真剣な表情の秀雄が『じゃあ、遅くにすまなかったね』と言いながら踵を返
し、その場を去って行った。
雅代はその背を、ただ無言で見送った。
その時、雅代の胸の中には、怒りとも寂しさともつかぬ重たい感情が渦巻く
ばかりだった。
――――― シナリオ風 ―――――
〇北山製糸工場/寮裏手 ・夜
仕事帰りの雅代。
疲れを抱えた身体で秀雄と向き合う。
秀雄
「でも……もう40も過ぎていて、ここでの仕事は体が辛いだろ?
家に戻れば、無理して働くことはない。
家のことだけして、ゆったり暮らせるんだ」
雅代、目を伏せる。
足の重さに耐えながら、揺れる心。
雅代(N)
「確かに……体は辛い。
けど、『戻る』と言ってしまえば負ける気がする……」
雅代「……分からない。
そんなふうに言われても、すぐには決められないわ」
秀雄
「いいんだ。今日すぐに返事を求めてるわけじゃない。
でも考えてみてほしい……。
俺は、本気でおまえに戻ってきてほしいんだ」
ふいに風が吹き抜け、遠くから汽笛の音。
沈黙ののち、秀雄が言葉を継ぐ。
秀雄
「今夜は駅近くの旅館に泊まる。
明日には帰るつもりだ。
気持ちが決まったら手紙で知らせてくれ。迎えに来るから」
真剣な眼差しを残して背を向ける秀雄。
雅代(心の声)
「怒りとも寂しさともつかない……重たい感情だけが胸に渦巻いていた」