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ある夜、私は千秋さんを部屋に招いて手料理を振る舞った。簡単な和食だけど、彼は喜んで食べてくれた。ていうか、たぶん何を作っても文句言わずに食べてくれる人だ。
食事を終えた頃、彼はおもむろに切り出した。
「そういえば、転職するんだっけ?」
「はい。一応、次の仕事が決まってから辞めようと思ってます」
「そうか。理由はやっぱり居づらいから?」
「というよりも、あの場所で労働力を提供するメリットが見いだせなくなったんです。直属の上司も信用できないし」
都合の悪い噂が出回ればすぐに部下を切る人だ。そしてそれが間違いだと判明したとたん褒めてすり寄ってくる。信用できるわけがない。
「ああ、あの人か。まあ、上でもいろいろ問題視されているよ」
「そうなんですか」
「何とかしてあげたいけど、俺も問題起こしたから本社に戻れって言われてるんだよね」
千秋さんは苦笑しながら言った。
その問題が私のせいだから、罪悪感を感じてしまう。私が謝ろうとしたら、彼はあっけらかんと言い放った。
「紗那のいない会社なら俺もいる意味ないし、さっさと戻るか」
「え? そんな理由で」
「だって俺がわざわざ子会社に出向したのは紗那に会いたかったからなんだよ」
「千秋さん……」
もうどうしたらいいの? この人。
仕事より女を選ぶなんて、現実的にはありえないんだけど。
食事を終えて「ごちそうさま」と手を合わせ、食器を洗うために立ち上がろうとしたときだった。
千秋さんが両手の指を組んだまま言いにくそうに声をかけてきた。
「紗那、実は……」
「はい?」
「君の転職先のひとつとして提案したいことがあるんだけど」
「何ですか? そんなあらたまった言い方をして」
私は再び腰を下ろし、彼の話の続きを待った。けれど、なぜかその続きをなかなか言ってくれない。それどころか、彼は言いづらそうに顔を背けてしまった。
私は怪訝に思って促してみることにした。
「千秋さんが私の転職先を見つけてくれるの?」
「うん、まあ、そうなるかな」
「へえ、どんな仕事ですか?」
あまり深く考えずに訊ねると、彼は照れくさそうにしながらも、私の目をまっすぐ見て言った。
「俺と一緒にアメリカに行かない?」
私は一瞬呆気にとられ、その壮大な意味に「ええっ」と声を上げた。
すると彼は私をじっと見つめたまま、妙に真剣な顔で、さらなる驚愕の言葉を投げつけてきた。
「一応、プロポーズのつもりなんだけど」
私は目を見開いて固まってしまった。
私は頭が混乱しながらも、どうにか平静を保ち、彼にひとつずつ訊ねることにした。
「ええっと、まずどういうことか説明してくれますか?」
「アメリカ支社に戻ってこいと言われてるんだけど、紗那と離れたくないから断ってる。でももし、紗那が一緒に行ってくれるなら受ける」
彼はとんでもないことを言っていると自覚しているのだろうか。
「ま、待って。ちょっと待って。それ、だめでしょ。私の返答次第で千秋さんの人生が変わってしまうよ」
「いいよ、それで。俺の人生はぜんぶ紗那のものだ」
もう誰かどうにかしてよ、この人!!
「千秋さん、落ち着いて!」
「俺は落ち着いてるよ。紗那が落ち着けよ」
「落ち着けませんよ!」
千秋さんは正直私とは住む次元が違うレベルの人だと思っている。そんな人と想いが通じ合っているだけで奇跡なのに、彼が自分の人生のすべてを私に委ねているなんて。
「私が行かないって言ったら」
「俺も行かない」
「私が田舎に引っ越すと言ったら」
「俺も引っ越す」
「仕事は?」
「転職する」
「じゃあ、私がもし別れるって言ったら」
「別れない!」
あ、そこだけは絶対に譲れないんだ。
まさか、こんな人生を左右する選択肢を提示されるとは思わなかった。転職するだけなら私の個人的な事情で済まされるけど、千秋さんの人生が関わってくる選択なんて……。
ん? あれ? 待って。この人そのあと何て言った?
プロポーズ???
私が混乱する頭をどうにか整理しようとする中、千秋さんは穏やかな顔で話を続けた。
「君が仕事を好きなのはよく知ってる。だから、向こうでも知り合いの会社のツテで君に合う仕事を紹介しようと思ってるよ」
「……英語、しゃべれないんですけど」
「君なら3ヵ月あれば話せるよ。いい経験になると思うけど、どうだろう?」
「……そう、ですね。千秋さんが一緒なら安心だし」
「そうだろ。じゃあ」
「ちょっと待って!」
彼はあとで付け加えたセリフについてさらっと流そうとしている。
私はそれをはっきりしておきたくて、おずおずと訊ねた。
「あの、プロポーズって……」
すると彼はにっこり笑って返答した。
「俺が紗那に結婚を申し込んでいるということだ」
ですよね。そうだよね。
だけど、あんまり急展開すぎて頭がついていかない!!
「ああ、ごめん。こんな食べ終わった食器を目の前にして言う言葉じゃないな」
「それは、いいんですけど」
「ちゃんと形式的なプロポーズをする予定だよ」
「それ、暴露したら意味ないですよ」
「失敗した。気持ちが焦ってつい言ってしまった」
何それ。可愛い。
困惑しながら苦笑する千秋さんを見て複雑な心境になった。
彼からの結婚の申し出はびっくりしたけど、本心ではとても嬉しいし、彼とならやっていけると思う。
だけど私には結婚に関するトラウマがまだ残っていて、それが引っかかっている。
千秋さんは不安げに私を見つめて訊いた。
「もしかして俺、断られる?」
「違うんです。本当に私でいいのか迷っています。だって私はまだ千秋さんに見せていない部分があると思うし、一緒に暮らしていたらがっかりするところも出てくると思うから」
そうなったときに、千秋さんに幻滅されるのがつらい。彼が私に冷めてしまったときが怖い。
すると千秋さんはおもむろに立ち上がり、私のそばに来て私の肩に手を添えた。
「それは誰でも多少あることだよ。他人同士が一緒になるんだから。俺はさっきも言った通り紗那の意見を尊重したい。これから先の人生において、君とともに物事を決めて、君と一緒に生きていきたい」
すごく、とんでもない告白をされた気がする。
だけど、千秋さんが相手なら私の今までの結婚観はすべて覆ってしまうだろう。仕事も家事も将来的には子育ても、すべて女がやるべきという私の潜在意識の中に植え付けられた価値観だ。
千秋さんなら絶対に押しつけたりしないってわかる。
彼ならきっと本当に、すべてのことを一緒におこなってくれそうだ。
私が返事をしようとしたら、彼が先に口を開いた。
「俺が君に命令することはないよ。家のことを押しつけたりもしない。なんなら店で酔っぱらって他の客に怒鳴ったりしないし、酔い潰れて床に寝転んだりもしない。俺の親と同居しろとも言わない。あと夜の店にも行かない」
「待って。千秋さんそれ、わざと言ってる?」
「本心で言ってる」
真面目な顔でそう話す彼を見ておかしくなってしまった。
だって彼が今言ったことはすべて、優斗が私にしてきたことだから。
「俺は紗那を悲しませるようなことはしないよ」
「わかっています」
私は彼の手をそっと握って立ち上がった。そして彼の目を見て笑顔で告げる。
「あなたとならどこへでも行ける気がする。まだ知らない広い世界をあなたと一緒に見たいです」
これが、彼からのプロポーズの返事。
私には日本に残りたい理由もないし、名残惜しい気持ちだってない。ただ、あるのは千秋さんと一緒にいたいという気持ちだけ。
「それは了承してくれたということでいいの?」
「はい」
私が笑顔で返事をすると、千秋さんは微笑みながら手を伸ばし、私の髪に触れた。ハグするのかなと思ったら、彼は私をひょいっと抱き上げてしまった。
いわゆるお姫様抱っこというやつだ。
「ちょっと、千秋さん」
「紗那は軽いな。もっと食べないとだめだ。まあ、いっか。アメリカに行けば絶対太るから」
「いやですよ! 噂には聞いたことあるけど」
「大丈夫。もう少し肉をつけたほうが触り心地がいい」
「嫌味ですか」
「違うよ。ずっと君を触っていたいんだ」
あ、あれ……もしかして私、結婚したらずっと放してもらえなくなる?
ふとそんなことを想像して、それもいいかもしれないなんて思う自分に恥ずかしくなった。
「紗那、好きだ。愛してる!」
彼は私を抱いたまま私の額にキスをした。
この流れで押し倒されそうだったので、とりあえず制止した。
「千秋さん、まずお皿を洗わないと」
「あとで俺が洗うから」
「だめでしょ。汚れが」
「じゃあ、先に洗うから一緒に風呂に入ろうか」
「もう、バカ!」
私は恥ずかしくて反発してしまったけど、本当は嬉しくて、結局今夜は彼の暴走にしっかり付き合ったのだった。