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紅林は不安を払拭しようと、長火鉢の引き出しから煙草を取り出して口に咥え、長年愛用しているオイルライターに油を注した。こうした形式じみた行為は、紅林の心を安定させる重要な儀式で、若い頃からの習慣となっていた。
事実、詩織の取り調べの最中は、煙草の吸い殻が山のように灰皿に積まれていて、それを取り替えるのは後輩刑事の役割りとなっていた。
紅林は、自分の棺には、このライターと煙草を添えて貰えたらと考えていた。
その旨を、遺言書に記しておかねばなるまい。
財産のことも、家主の居なくなった北海道の土地についても、後々を考慮して明記せねば、頼りない息子は右往左往するであろう…。
紅林はふっと笑った。
その時、柱時計が鳴った。
カチカチと音を立てながら動く秒針を眺めながら、紅林は違和感を覚えた。
正午を起点に、3時間毎に鳴る筈の柱時計は、妻が生前、実に丁寧に管理していた年代物であった。
何故、音が鳴るのだ?
紅林が腰を浮かすと、手にしていたオイルが溢れて褞袍の裾を濡らした。
柱時計はカチカチと時を刻み続けている。
「かなりの年代物だから、私が居なくなったら修理屋さんを手配してくださいね。連絡先は、電話帳に書いてありますから」
在りし日の、妻の声が聞こえた。
毎日家事をこなして、子供を立派に育て上げ、不平や不満を口にせずに、常に寄り添ってくれた最愛の理解者に、労いの言葉をもかけずに生きてきた人生を紅林は後悔した。
咥えたままの煙草に火を点けて、規則正しく動く振り子を眺める。
ゆらゆらと立ち昇る煙。
時を刻む音。
紅林は、埃の目立つガラス扉を褞袍袖で拭った。
柱時計が鳴る。
煙草が落ちる。
褞袍の裾へ火が移る。
背後でタブレットが爆発する。
紅林は驚いて振り返る。
アゲハ蝶をあしらった鶯色の浴衣。
そこから伸びる細い腕。
首に出来た縄の跡。
色白の肌と黒髪。
右目から零れ落ちる涙。
白く濁った左目。
児玉詩織が微笑みながら佇んでいた。