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深冬芽以
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地下からせり上がってくるのは
腐った機械油と百合の香りが混ざり合ったような、吐き気を催す悪臭だった。
温室の床板が次々と跳ね飛ばされ、亀裂からはドロドロとした黒い液体が、生き物のように這い出してくる。
「……九条さん、蓮を連れて下がって!」
私は九条さんの肩を押し、瓦礫の影へと下がらせた。
黒い液体の中心、パンドラの冷却材とナノマシンの渦の中から、一人の少女がゆっくりと姿を現す。
10年前、校舎の屋上から消えたあの時と全く変わらない制服姿。
だが、その肌は透き通るほど白く
血管の代わりに光ファイバーが透けて見えている。
彼女は、父・誠が作り出したAI「ミチル」のオリジナルであり
私の母・栞奈の妹——渡邉(旧姓・佐伯)ミチル。
「……やっと、殺しに来てくれたのね。栞ちゃん」
ミチルは、赤ん坊が初めて言葉を発するような、無垢で空虚な声で言った。
彼女が歩を進めるたび、周囲のガラス片が共鳴し、キンキンと高い音を立てて砕け散る。
『……お姉様を殺したその手で、私を自由にして。…この「箱」の中は、もう飽き飽きなの』
「……ミチルさん。あなたは、父に何をされたの?」
私が問いかけると、ミチルは首を不自然に傾け、くすくすと笑った。
その背後、地下から巨大な二つの円筒形の装置がせり上がってくる。
父・誠が遺した最後の仕掛け——『審判の天秤【テミス】』。
「パパはね、私を『神の予備』にしたの。お姉様の脳が愛で動くなら、私の脳は『絶望』で動く。…今、お姉様が消えたことで、この国の全インフラの制御権は、私の絶望に同期されたわ」
ミチルが指を鳴らすと、温室の壁一面のモニターに、現在の日本中の「混乱」が映し出された。
信号機が暴走し、街が停電し、病院の生命維持装置が次々とアラートを上げている。
『栞ちゃん。私を殺せば、この絶望の連鎖は止まる。…でもね、私を殺すには、あなたがパンドラの中心部……私の「心臓」に直接、その喉の暗号を流し込まないといけない』
ミチルは自分の胸元を指差した。
そこには、私の喉にある火傷の痕と同じ形の、複雑な端子が埋め込まれている。
『でも、気をつけて。あなたの喉は、もうボロボロでしょう? 次に声を解き放てば、あなたは二度と喋れなくなるどころか、脳が焼き切れて死ぬわ』
「……栞さん、行くな!」
記憶を失った九条さんが、よろけながらも私の腕を掴んだ。
「……理由はわからない。だが、君を失ってはいけないと、僕の心が叫んでいるんだ!」
九条さんの必死な瞳。
それを見たミチルは、嫉妬に満ちた表情で唇を噛み切った。
彼女の目から、黒い涙が溢れ出す。
『……愛?記憶もないくせに、そんな言葉を使うのね。…醜いわ。パンドラ、全出力を「絶望」に固定。……まずは、この男から消してあげる』
ミチルの周囲の黒い液体が鋭い棘へと形を変え、九条さんを貫こうと放たれた。