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禪院奨也が生まれたのは、福岡禪院家分家の一角だった。禪院家の分家であるというだけで、彼はすでに呪われた運命のように感じられた。術式を持たない者は蔑まれ、持っている者も、本家のために使い潰される。それが「禪院」という名を背負う者たちの宿命だった。
「奨也、もっと集中しなさい。お前の術式は貴重だ。」
厳しい声を浴びせるのは、奨也の父、禪院剛士だった。
「……わかってるよ、父さん。」
奨也は指先でハンドスピナーを回し始めた。その滑らかな回転音が庭に響く。目を細めて見つめるのは、父でもなく、分家の期待でもなく、自分の術式がどれだけ「自由」になれるか、という問いだった。
ハンドスピナーの回転が速くなるにつれて、奨也の周囲に空気の揺らぎが生まれた。近くの水盆が沸騰を始める。固体だった氷は溶け、液体となり、蒸発して気体に変わる。
「ほう……なかなかやるじゃないか。」
不意に声が聞こえた。
庭の奥から現れたのは、本家の使いである禪院真田だった。彼は、奨也を一瞥しただけでその実力を見抜いたようだった。
「真田さん、何の御用でしょうか。」
奨也の父が慌てて頭を下げる。その姿を見るたびに、奨也は嫌悪感を覚えた。
「奨也君、本家の命だ。東京の呪術高等専門学校へ進学し、家の名を背負いながら術師としての地位を築け。お前にはそれができる才能がある。」
「……命令、ね。」
奨也はハンドスピナーを止め、ふっと鼻で笑った。
「わかったよ。僕が1級術師になればいいんだろ? ただし、それが本家のためになるかは別の話だ。」
真田の眉がピクリと動いたが、何も言わずにその場を去った。
その夜、奨也は家を出る準備をしながら、心の中で呟いた。
「僕は、禪院家の『道具』になんてならない。」
彼が選ぶ道が禪院家の期待を裏切るものになるのか、それとも呪術界を変えるものになるのかは、まだ誰にもわからない。
奨也が家を出る準備をして数日後、彼は東京への新幹線の切符を手に、福岡駅のホームに立っていた。父が用意したスーツケースと、ポケットに収まるハンドスピナーだけが彼の荷物だった。
「本家の命令だからね、仕方ないさ。」
父の最後の言葉を思い出しながら、奨也は溜め息をついた。
「仕方ない……って言うけど、なんで東京じゃなきゃいけないんだよ。」
新幹線の到着アナウンスが流れる。乗り込むべき列車が目の前に滑り込んできた。車両のドアが開くと、座席との間に、見えない壁が立ちふさがっているように感じた。
「行かない。」
奨也は唐突に言葉を発し、スーツケースを引きずりながらホームを逆方向に歩き出した。
「術式の訓練なら、分校でもできるだろ。」
「つまり、東京の本校じゃなくて、ここに通いたいって?」
分校の校長、柴田春彦が目を細めて奨也を見つめた。彼のデスクの上には奨也の入学手続き書類が置かれている。
「はい。」
奨也はきっぱりと答えた。
「理由は?」
「新幹線通学は嫌です。」
奨也の言葉に、校長は一瞬固まった後、大声で笑い出した。
「君、それでいいのかい? 東京の本校は設備も教師陣も一流だ。分校じゃ、そこまで期待できないぞ。」
「それでもいいです。僕に必要なのは、術式を磨く時間だけです。それならどこだって同じでしょう?」
柴田は少し考え込み、ニヤリと笑った。
「面白い。そんな覚悟でここに来たなら歓迎するよ。ただし、本校以上の成果を出せなければ家が君を許さないかもしれないぞ。」
「その時は、その時です。」
奨也の迷いのない瞳に、柴田は満足げに頷いた。そして、奨也の手に福岡分校の制服と名札を渡した。
その夜、奨也は寮の一室でハンドスピナーを回しながら、窓の外を見つめていた。福岡の街の夜景は、彼の心を少しだけ軽くしてくれる気がした。
「ここなら、少しは自由になれるかもしれない。」
彼がまだ知らないのは、福岡分校にも、そして彼自身にも試練が待ち構えているということだった。