テラーノベル
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席に戻ってからの私は、比較的穏やかに職場での時間を過ごした。少しの残業をこなしてからパソコンの電源を落とす。
ちらりと経理課の方へ目をやると、太田の姿が見えない。私が気づかないうちに、彼はすでに退社したようだ。帰りが一緒にならなくてよかったと安心する。
同僚たちに帰りの挨拶をしてロッカールームへと向かう。ロッカーを開けて、バッグからスマホを取り出す。そこに通知が何もなかったことに安心する。それでもまだ油断はできないと身構えてロビーに降りて行ったが、そこに太田の姿はない。ひとまずは安心だと肩の力を抜き、帰路についた。
アパートに向かって歩きながら、また明日来ると言っていた、昨夜の太田の言葉を思い出していた。今度こそ別れ話をして決着をつけたいが、昨夜のようなことになったらと思うと、部屋に上げるのは恐い。それなら外で会おうと言ってみようか、それとも電話で伝えようか、などと考えているうちに、自分の部屋の前に着いた。
太田の姿がないことに胸をほっと撫で下ろし、鍵を開けた。その時、間近で声がした。
「お帰り。残業?」
ぎくりとして、声がした方にぎくしゃくと顔を向ける。そこには太田がいた。いったいいつの間にと背筋が凍りつく。
彼はにこやかな顔をして、私の傍までやって来た。じりじりと後ずさる私の腰に腕を回す。
「何をそんなに驚いてるんだ?俺に聞いてほしい話があるんじゃなかったのか。夕べそんなことを言っていたよな。だから来たんだ。上がるよ」
太田は勝手にドアを開け、私を引きずるようにしながら玄関に入った。ドアを閉めて鍵をかけ、私の体を抱き抱えるようにしながら部屋に上がり込もうとする。
「待って、話はここで……!」
「ここで、って玄関で?ふぅん?わざわざ来てやったのに?俺はこのまま帰ったって全然構わないけど。俺の方に話すことはないからな」
太田は私の腰から腕を離し、帰る素振りを見せた。
この機会を逃したら、また別れるきっかけを失ってしまうと思ってしまった。
「待って!」
彼を引き留めてしまったことを後悔した。
けれどそれは遅く、彼はにっと笑って靴を脱ぎ、勝手知ったるといった様子で部屋へと向かう。
私は緊張しながらテーブルを挟んで座り、太田に向き合った。膝の上でぐっと両手を握りしめて、話を切り出す。
「別れたいの」
「何、言ってるんだよ。冗談だろ」
予想はしていたが、やはり話にならなかった。太田は「別れない」の一点張りで、私の話に耳を貸さない。話は堂々巡りだった。
そのうちに痺れを切らした太田はテーブルを押しのけて、私をその場に押し倒した。やめてと訴える私の言葉は彼に届かなかった。私の自由を奪い、噛みつくような口づけで私の体中に新たなあざを残した。どうしてこれほどまでにと思うほど、彼は昨夜以上に執拗に私を抱いた。
この結果は自分が招いたことだと心の底から後悔する。部屋に上げてしまった時点で、この状況は予想できたはずだった。しかし太田が帰ろうとした時、焦ってしまった。
私はのろのろと体を起こし、帰り支度を始めた太田の背中に勇気を振り絞って告げる。
「もう今日限り、あなたとは個人的には会わない」
シャツのボタンをはめながら、太田はゆっくりと振り向き、つまらなさそうに言う。
「その話、まだ終わってなかったのか」
彼はベッドの上に腰を下ろし、私の頬に手を伸ばした。指先で撫でながら甘い声で言う。
「どうしてそんなこと言うんだよ。俺は笹本を愛してる。お前だってそうだろ?愛し合ってる俺たちがどうして別れなきゃならないんだ?」
「愛し合ってる?誰と誰が?私はもうあなたを愛してなんかいない。あなたの束縛が嫌。こんな暴力的な愛し方も嫌。もう耐えられない」
「束縛?それはお前が大切だからだよ。俺の目の届くところにいてほしいからだ。暴力的な愛し方だって?だけどいつもお前はそれで達してるじゃないか。気持ちいいからだろ?」
「違う!心から気持ちいいなんて一度も思ったことはない。私のことを本当に愛していたとは思えない!」
「なんだよ、それ……」
太田の声が低くなる。
私は怯えた。
「なぁ、笹本」
彼は私の両肩をつかんで床の上に押し倒した。
「北川の方がよくなったって、正直に言えば?」
彼の両手が私の首に伸びてきた。逃げようと身をよじらせた時には遅く、彼の手に力が込められた。
「くっ……」
喉の辺りがじわじわと締めつけられる。
その手から逃れようといくらもがいても、彼の手はびくともしなかった。
苦しい――。
霞む視界の中に、うっすらと微笑む彼が見えて恐怖した。
「だめだよ。笹本は俺の彼女なんだ。いったい何度言ったら分かってくれるんだろうな。お前を他の男になんて絶対に渡さない」
彼の声が遠くに聞こえたと思った時、首の辺りに感じていた圧迫感がふっと消えた。太田の手が離れたのだ。
途端に咳き込み、私は体を横にした。
太田がその背中を優しい手つきで撫でる。
「明後日から出張だったな。明日は出張前で色々準備があるだろうから、来るのはやめておくよ。出張は一泊だったよな。夜には電話するから、ちゃんと出てくれよ。もちろん仕事の邪魔にならないようにするから安心して。笹本がこっちに戻った夜に、また来る」
たった今私にしたことなど忘れたかのように、太田は優しい声でそんなことを言う。ちらと目に入ったその顔は、付き合うより前、そしてつき合って最初の頃によく見たものと同じだった。
一体どうしてこんなことになってしまったのかと、ひどく哀しくなって、涙がこぼれた。
彼は涙の上にキスを一つ落とす。
「おやすみ」
優しすぎる声で言って、彼は帰って行った。
その後ろ姿を私は涙に霞んだ目で見送った。再び軽く咳き込んだ時、今自分の身に起こったことがよみがえる。首に残る太田の手の感覚にぞっとして、鳥肌がたった。
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