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出張当日はいつも通りの時間に出勤した。いったん職場に顔を出し、新幹線の時刻に合わせて拓真と一緒に出発することになっていた。
出かける前に大槻に挨拶していこうと、私たちは部長席へと向かう。
その途中にある経理課の前を通った時、太田と目が合った。不自然に見えるのは承知の上で、私はふいっと彼から目を逸らした。そのまま無言のまま通り過ぎる。
「笹本さん?」
その声にはっとして顔を上げると、拓真が気がかりそうに私を見ていた。
私は慌てて表情を取り繕い、彼の先に立って足を速めた。
部長に挨拶をした後は総務課に戻り、同僚たちに私たちが不在の間のことを頼む。
「それでは行ってきますので、後のことはよろしくお願いします」
「気を付けて行って来てね。こっちの方は心配いらないわよ。斉藤さんと課長がなんとかするはずだから」
「あぁ、任せてくれ。そうそう、土産よろしくな」
「おいおい、斉藤君。二人は遊びに行くわけじゃないぞ」
賑やかに見送られて、私たちは各自荷物を持ってロビーに降りた。呼んであったタクシーに乗り込む。
駅に着いた時には、乗車時刻までまだニ十分ほど余裕があった。指定席だから列に並ぶ必要もない。
「碧ちゃん、その荷物貸して。重いだろ?」
「これくらい平気よ」
しかし私の言葉を聞き流した彼に、旅行カバンを取り上げられてしまう。
「あっ、大丈夫だから!」
「そんなこと言わないで、これくらいは甘えて。それに、俺がこうしたいんだよ」
「……じゃあ、お願いします。ありがとう」
もじもじしながら礼を言う。
彼と一緒に改札を抜けて、ホームに向かう。途中にあった売店の前で足を止めて、移動中のための飲み物とチョコレートを買う。
「今はハイカカオのやつが好きなの?確か昔はミルクチョコが好きだったよね」
どうでもいいようなことなのに、まだそんなことを覚えているのかと驚いた。しかし、彼の記憶の中に私との思い出が残っていることを嬉しく思う。
「味覚もちゃんと大人になったみたいよ」
「カレーも中辛くらいは食べられるようになった?」
彼はからかうような目をして言った。
学生時代のことを言っているのだとすぐに分かった。私は苦笑する。
「大丈夫になったよ。それにしても、色々とよく覚えてるわね」
「碧ちゃんのことなら、全部とまではいかないけど、かなり覚えてるよ」
さも当然という顔をして彼は言った。
得意げな彼の表情が可笑しくも可愛いらしく思えて、口元が緩む。
ホームに着いてしばらく待っていると、新幹線の到着を知らせるアナウンスが入った。だんだんと車両の姿が見えてくる。
新幹線に乗り込み指定席に着くと、拓真は二人分の荷物を頭上の棚に上げ、私を窓側の席に座らせる。自分は通路側に座り、それから私を気遣うように見た。
「碧ちゃん、眠かったら寝てていいよ。着いたら起こしてあげるから」
私は両頬を手で隠すように覆う。
「私、そんなに疲れたような顔してる?」
「疲れたというか、夕べ、よく眠れなかったのかな、って」
「そう……」
私は足の上に手を置き、そこに視線を落とした。
拓真がそっと訊ねる。
「……太田さんと何かあった?」
どきりとした。甘えてはいけない、彼を太田との別れ話に巻き込むわけにはいかないとずっと思っていたはずだったのに、彼の優しい声音にふっと気持ちが緩む。何かあったと匂わすようなことを言ってしまった。
「そんな感じ……」
「もしかして、別れ話のことで?」
「……うん」
拓真の手が私の手の上に重なる。
「碧ちゃん一人ではどうしようもないのなら、いつでも言って。俺に頼ってくれていいんだよ」
彼の言葉に涙がこみ上げそうになった。しかしそれを堪えて口角を上げ、私は笑みを浮かべる。
「なかなかうまくいかなくて、弱気になっちゃった。ごめんね」
「どうして謝るの?この前も言ったでしょ。俺は君にどんどん甘えてほしいと思ってるんだ。俺にはどんなことでも言ってくれていいんだからね」
「ありがとう。その時にはそうするわ」
拓真はしばらく気づかわし気な顔をしていた。しかし、私がそれ以上は何も言うつもりがないと悟ったらしく、苦笑してため息をつく。それから気を取り直したように悪戯っぽい目をして、私の顔をのぞき込んだ。
「あのさ」
「なぁに?」
真顔で訊き返す私に彼は照れ臭そうに笑う。
「俺も碧ちゃんに甘えてもいい?」
「えっ、甘えたいって、どういう意味?」
思いがけないことを言われて、私は瞬きを繰り返した。先程重くなりかけていた気分が軽くなったのはそのおかげだろう。
拓真はにっと笑う。
「さっき買ったチョコ、俺にも一つちょうだい」
「チョコ?いいけど……。拓真君って、チョコとかダメじゃなかった?」
言いながら私はガサゴソとバッグの中を探る。学生時代の拓真はチョコだけではなく、甘いもの全般が苦手だった。
「それは今もだけど、さっき買ってたのって、あんまり甘くないタイプだったよね。今の碧ちゃんが好きなものが何なのかを知りたいんだ。だから手始めに、そのチョコを食べさせてよ」
言い終えて、拓真は口を開けた。
私は困惑する。
「えっ、ど、どうして口を開けるのよ」
「食べさせて、って今言ったよ?ほら早く」
「えぇ……?もう、しょうがないなぁ……」
文句を言いながらも、どきどきしていた。チョコの包み紙を開き、彼の口の中にそっとチョコを入れる。
指先を抜こうとした瞬間、その指を拓真にぱくりと食べられてしまう。
「ちょ、ちょっと……!」
焦る私を愉快そうに見ながら、彼は私の指から唇を離す。
「おいしそうだったから、一緒に食べてしまった」
「一緒に、って……」
指先に彼の唇の感触が残っている。頬が、耳が熱い。鼓動が跳ねていることを気づかれたくなくて、私はふくれっ面をする。
「拓真君って、こんなヒトだった?」
「さて、どうだったかな」
拓真はくすくす笑っている。笑いを収めると、今度は組んだ手を前の方を伸ばす。
「なんだか眠くなってきたな。碧ちゃん、向こうに着く頃起こしてくれる?」
「え?」
さっきは私に眠かったら眠っていいよなんて言っていたのに――。
しかし拓真の幸せそうにも見える表情に、文句を言う気が失せる。
私の手の上に再び自分の手を重ねて、彼は目を閉じた。
まるで自由人のような彼の様子に苦笑する。
「もう……」
目を閉じた彼の穏やかな横顔に心が安らぐ。好きな人の隣にいるということは、本当ならこんなにも安心できて幸せなことなのだ。改めてそのことに気づき、思い出してしまってはもう、今後どうあっても太田の傍にはいられないし、いたくない。拓真の傍にいたい。この幸福な時間を、早く延々と続くものに変えたいと切ないほどに願う。
私はその日を想像しながら、眠る拓真の腕に静かに体を寄せた。