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出張当日は通常通り出勤し、新幹線の時刻に合わせて出発することになっていた。
まずはその前に大槻に挨拶しようと、拓真と一緒に部長席へ向かう。途中にある経理課の前を通った時、太田と目が合った。これまでであれば何らかの形で挨拶をしていたものだったが、この時はさすがにそんな気にはなれず、彼から目を逸らして無言のまま通り抜けた。
「笹本さん?」
いつもと違う私の様子に気づいたらしく、拓真が気がかりそうに声をかけてくれたが、私は慌てて表情を取り繕った。
「早く部長に挨拶しましょう」
その後総務課に戻り、皆んなに後を頼む。
「それでは行ってきます。不在の間の私たちの業務、よろしくお願いします。急ぎの件は、携帯か支社の方に連絡してください」
「気を付けて行って来てね。こっちの方は心配いらないよ。斉藤さんと課長がなんとかするから」
「あぁ、任せてくれ。お土産よろしくな」
「二人は遊びに行くわけじゃないぞ」
そんな賑やかな声に見送られて、私たちはそれぞれ荷物を持ってロビーに降りた。すでに呼んであったタクシーに乗る。
新幹線は指定席を取ってあった。乗車時刻まではニ十分ほどの余裕がある。
私は売店の前で足を止めて、移動中の飲み物とチョコレートを買った。
それを隣で見ていた拓真がくすっと笑い、会社という場を離れたからだろう、砕けた口調で言った。
「今はハイカカオのやつが好きなんだな。昔は確か、ミルクチョコが好きだったよね」
どうでもいいような、そんな些細なことまで記憶に残っているのかと驚いた。同時に彼の中に私との思い出が確かに残っているのだと思い、嬉しくなる。
「味覚もちゃんと大人になったみたい」
私もまた普段使いの言葉で返し、ふふっと笑って拓真を見返す。
何を思い出したのか、彼はからかうように言った。
「カレーも中辛くらいは食べられるようになった?」
学生時代のことをいっているとすぐに分かり、私は苦笑する。
「うん、大丈夫になったよ。それにしてもよく覚えてるね」
「だって、碧ちゃんのことだからね」
拓真は当然とでもいうような顔をした。
得意げにも見えるその表情が可笑しくも嬉しい。
「お昼は向こうに着いたら食べようか。その後支社に向かえばちょうど良さそうだ」
「そうね」
「荷物貸して。重いだろ?」
「これくらい大丈夫よ」
そう答えたにも関わらず、彼は私の手から旅行カバンを取り上げてしまう。
「あっ、大丈夫だから!」
「これくらいは甘えて。それに、俺がこうしたいんだ」
彼はにっと笑った。
「……じゃあ、お願いします。ありがとう」
もじもじと礼を言う私を、拓真は満足そうに見た。
たったそれだけのことだったが、彼から大切に扱ってもらっていると思うと頬が緩みそうになる。その表情を隠すために、私は線路の向こうに目をやった。
「新幹線、そろそろ来る頃かしら」
「そうだね」
そんな言葉を交わしていると、間もなくして曲線美の綺麗な車両の姿が見えてきた。
平日だからなのか。ホームで待つ人の姿が少ないと感じていたが、新幹線の中もだいぶすいていた。これならわざわざ指定席を取らなくても良かったんじゃないかと思いながら、私は拓真の後を追う。
私を窓側に座らせ、自分は通路側に座った拓真が、私を気遣うように言った。
「碧ちゃん、眠かったら寝てていいよ。着いたら起こしてあげるから」
「私、そんなに疲れたような顔してる?」
「俺にはそう見えるよ。夕べもよく眠れなかったのかな、って」
「そう……」
私は足の上で組んだ両手に目を落とした。
「……太田さんと何かあった?」
優しい声で訊ねられて、どきりとした。甘えちゃいけない、彼を太田との別れ話に巻き込まないようにと思っていた。そのはずだったのに、明らかにそうと取れるような言葉をもらしてしまった。
「うん、そんな感じ……」
拓真の手がそっと私の手の上に重ねられた。
「もしかして、別れ話のことで?」
「……うん」
拓真の手が私の手をキュッと握った。
「もしも一人じゃどうしようもないのなら、いつでも言って。頼ってくれていいんだよ」
彼の言葉に涙がこみ上げてきそうになったが、堪える。
「ありがとう。なかなかうまくいかなくて、弱気になっちゃった。ごめんね」
「どうして謝るの?この前言ったように、俺は君にどんどん甘えてほしいと思ってるんだから、俺にはなんでも吐き出して。だけど今は……」
拓真は言葉を切って、私の顔をのぞき込む。
「どうしたの?」
鼻声で先を促す私に、彼は照れ臭そうに言う。
「俺が碧ちゃんに甘えたい気分なんだけど、いいかな」
「甘えたいって、何?」
拓真の言葉の意味に気を取られたら、重くなりかけた気持ちを一瞬忘れた。
彼はにやりと笑う。
「さっき買ったチョコ、俺にも一つちょうだい」
「チョコ?いいけど……。拓真君って、チョコとかダメじゃなかった?」
ガサゴソとバッグの中を探りながら訊ねた。学生時代の拓真はチョコだけではなく、甘いもの全般が苦手だったはずだ。
「それは今もだけど、それってあんまり甘くないタイプだろ?今の碧ちゃんが好きなものが何なのかを知りたいんだ。だから手始めに、そのチョコ食べさせて」
そう言うと、拓真は口を開けた。困惑している私を急かす。
「ほら早く」
「もう、しょうがないなぁ……」
口では文句を言いながらも、どきどきした。チョコの包み紙を開いて、彼の口の中にそっとチョコを入れてあげる。
その瞬間、拓真は私の指までもぱくりと食べてしまった。
「ちょっと……!」
焦る私に悪戯っぽい目を向けながら、彼は私の指から口を離して笑った。
「おいしそうだったから、一緒に食べてしまった。あはは」
「あはは、って……」
頬が熱い。今の私は絶対に顔が真っ赤になっているはずだ。唇を尖らせて私は文句を言った。
「拓真君って、こんなヒトだったっけ」
「さて、どうだったかな」
拓真はそう言ってくすくす笑いながら、私を見る。
目が合って、鼓動はますます大きく鳴る。
「あぁ、なんだか眠くなってきたな。碧ちゃん、向こうに着く頃起こしてくれる?」
「え?」
さっき私に、眠かったら眠っていいよなんて言ったのに――。
しかし拓真のどこか幸せそうにも見える顔に、文句を言う気は失せる。
彼は私の手の上に自分の手を重ねたままで目を閉じた。
「もう……」
苦笑しながらも、彼の手の温かさに心が安らいだ。好きな人と一緒にいるということは、本当ならこんなにも安心できて幸せなことのはずだ。そのことに改めて気づき、知ってしまった今、もうどうあっても太田の傍にはいられない。私の居場所は拓真の傍だ。この幸福な時間を、早く延々と続くものに変えたいと切ないほどに思う。
私はその日を想像しながら、眠る拓真の腕にそっと頭を預けた。