「あー、それはね――」
岳斗はニコッと極上の腹黒スマイルを浮かべると、スーツの内ポケットへ忍ばせていたスマートフォンを取り出した。
それをポチポチと操作していたら、経理課の中からだけでなく、あちこちから沢山の視線が集まってくるのを感じる。元々、廊下で杏子を抱いた岳斗が安井たちに絡まれているという構図自体面白かったのか、他の階からもポツポツと野次馬が増え始めていて、これはこの会社の良くない体質だなとほくそ笑んだ岳斗である。
(どんどん注目が集まればいい……)
岳斗が腹の中で目の前の面々を嘲笑ったと同時、岳斗の手の中のスマートフォンを見てこらえ切れなくなったみたいに中村経理課長が椅子をガタッと言わせて立ち上がった。
「き、キミっ! ど、どこの誰だか知らないが、うちの課の前で問題を起こすのは大概にしてもらおう」
恐らく、杏子から送られてきた音声データを再生されるのを恐れての行動だろうが、中村課長が血相を変えてくれたお陰で、ますます周りの注目度が上がって願ったり叶ったり。
ひそひそとささやき合う声の中に、「中村課長も一枚噛んでるの?」とか「安井さんたちが中心ってことは美住さんと笹尾さんの件よね?」などといったものが混ざり始める。
今や、人が人を呼ぶ形で集まってきた野次馬の群れで、廊下が物凄い人だかりだ。
その中に営業課の笹尾の姿を見つけた岳斗は、自分の強運に拍手を送りたくなった。
「な、何なんですのっ!? 言いたいことがあるならさっさと言いなさいよ!」
周りが自分たちの動向に注目している状態というのが落ち着かなくなってきたんだろう。そもそも出だしが杏子への嫌がらせという意地悪な動機だ。根掘り葉掘り詮索されたら、良くない埃が出るのは自分たちの方だと、安井は直感的に理解しているに違いない。
一向に話を前に進めようとしない岳斗に、苛立ったように安井が語気を強めるさまを見て、岳斗は(この女、案外小者だな)と、声を上げて笑いたくなった。
(まぁ、よく吠える犬と言うのは往々にして弱いもんだからね)
そう考えると、顔を醜く歪ませた安井が滑稽にすら思えてくる。
「あ、笹尾さんっ!」
と、都合よくそんな安井の取り巻きの一人――杏子をつまずかせた女――が笹尾を見つけてこちらへ手招きしてくれて、岳斗としては正に渡りに船。
杏子が自分の背後で「岳斗さん……」とソワソワしているのを感じて、そちらへ対してはちょっぴり申し訳ない気持ちになる。
心の中で(もう少しだから辛抱してね)とつぶやくと、岳斗はさも今やっとお目当てのデータを見つけたという体で「あー、あった。これだぁ」とのほほんとつぶやいた。
その様子がさらに安井やその取り巻き、そうして「いい加減にしないと警備員を呼びますよ!」と岳斗へ決死の脅しをかけている中村経理課長、果ては取り巻きに呼び寄せられて仕方なく愛想笑いを浮かべて「亜矢奈、どうしたの?」と恋人を気遣うふりをしながらこちらへ近付いてきた笹尾にストレスを与えることは計算づくだ。
岳斗はそんな面々を春風駘蕩たる悪意を感じさせない視線で見詰めると、唇に手を当てて〝静かに〟とジェスチャーで周囲のざわめきを鎮めてから、おもむろに再生ボタンを押す。
***
【あれさぁ、亜矢奈が来なかったら怪我させられたのをネタに美住さんのこと、落とせてた気がするんだよね、俺】
岳斗が手にしたスマートフォンから、フロア内に大音量でそんな音声が流れ始めて、笹尾が目をこぼれ落ちんばかりに見開いたのが分かった。
岳斗はその変化にわざと気付かないふりをして再生を続ける。
【笹尾さん、悪い男っすねー。正直階段から落ちたのだって実はデモンストレーションだったんじゃないっすか?】
笹尾、とハッキリ名前が出たことで、前のセリフが笹尾のものだと特定されたのを察知した人間たちが「え? 笹尾さん、美住さんに言い寄られたって言ってたけど……違うの?」とか「もしかして階段から落ちたっていうのも自作自演?」と囁き合う声が聞え始める。
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