コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
荒れ狂う嵐に翻弄されているのは救済機構も同様だ。沈みゆく船で逃げ惑う灰色の鼠のように慌てる僧侶たちは防呪廊の偶像の視界へと逃げ込もうとするが、偶像自体が強風に薙ぎ倒されている。まだ立っている偶像を探し求める者たち、倒れた偶像を起こそうとする者たちが次々に吹き荒ぶ呪いの毒牙にかかる。
正常の世界の外側からやって来た何もかもを吹き飛ばす渦巻く黒雲が、しかし檻の奥から光の胞子を引き寄せている。
「信仰が! なんで!?」
ユカリの悲鳴に答える者はいない。溺れる者の叫び声がしばしば泡に消えるのと同様に、そもそも疑念の声が真っ当に聞こえた者がいない。
地下樹林を支配するという蝙蝠の如くふらふらと飛来する笑う影に、強烈な光を放って消し去りながらジニは強風に負けない声で叫ぶ。「解呪できないのかい!?」
「風で音が掻き消されてしまうんです!」とユカリは鬨の声にも劣らない叫びを返す。
「何だって!? 聞こえやしない!」とジニは再び叫ぶ。
ユカリは嵐ではないグリュエーの耳に近づいて話しかける。「魂を分割した魔法そのものを解くことはできないの!?」
「やろうとしたけど駄目みたい! たぶん呪いが邪魔してる!」
犠牲は増える一方で、数えきれない種類の痛みと苦しみの光景が千変万化する。巻き起こる風と煙る土埃の中、悲鳴や嗚咽、苦痛の叫びばかりではなく、怒りと憎しみの籠った怒声やおぞましい笑い声までもがレウモラク市の路地を行き交う。
「何か、他に何かないの?」
まるでユカリの問いに応えるように、救済機構の防呪廊の偶像が転がってきた。その視界に入り、周囲の呪いが勢いを失う。
「倒されても呪い除けの力自体は失っていないのですわね!」とレモニカが感心する。
バソル谷に向かう残留呪帯を越える時になぜか現れた『這い闇の奇計』に像を倒されて結界が壊れたが、あれは視界が逸れていたということだ。地面か空か明後日の方向に向けられていたのだろう。
「閃いた!」とユカリは嬉しそうに叫ぶ。「偶像を束ねて嵐の方に向けるってのはどう?」
「良いんじゃないかい?」とジニから好感触を得てユカリは嬉しくなる。
「そうですね。ワタシたちなら集められます」とベルニージュも賛同する。「あとはどう固定するか、ですが」
ユカリはグリュエーが偶像を見下ろして苔生した石のように固まっていることに気づき、飛びついて顔を覗き込む。
「グリュエー!? 大丈夫?」
呪いを受けたのかと心配したが何も問題なさそうだ。
「大丈夫。でも、そうじゃなくて」グリュエーはユカリを振り払うようにして、転がってきた偶像の顔を覗き込む。
「……護女、鎮魂舞踊さんに似てる」
その言葉の意味するところ、最悪の想像を誰一人言葉にすることなく全員が共有していた。
「一旦退こう! 嵐の外で解呪を試みよう」
ユカリの提案に反対する者はいなかった。むしろユカリ自身が最もその提案に抵抗があったといえた。
呪われた獣、虎蜂、『爛れ爪の邪計』が逃げた方向と反対へユカリたちは走る。ユカリの心持ちは、嵐から逃げるというよりも、その場から逃げると言った方が正しい。沢山の悲鳴が、助けを呼ぶ声が、命を乞う声がユカリの背中につかみかかり、足を止めようとする。言葉になっている声は一つも聞こえないが、ユカリには「見捨てるな」と叫んでいるように聞こえた。
局地的嵐はユカリたちを追って来ず、その場に留まって、クヴラフワ中から掻き集めたらしい呪いを振りまき続けた。
ユカリたちは檻の如き神殿の格子の如き柱で隔てられた敷地の境界線をたどり、街の東へと移動する。シシュミス教団の信徒たちの姿は檻の向こうに見えなかった。神殿へと逃げ込んだのかもしれない。
ユカリたちが逃げた先、珍しい六角形の煉瓦が積み重なった家々は概ね無事だが、長らく使われていないようで徐々に土に還りつつある。他所と比べて青々しい下草が繁茂し、蔓草に覆われた建造物もある。あるいはいずれ森に飲み込まれるのかもしれない。
「追って来ないね」とベルニージュが黒雲を振り返りつつ呟く。
「嵐になっても気まぐれなんだよ」とユカリは風の相棒の振舞いを思い出しつつ呟く。「でも念のためにもうちょっと離れよう」
嵐ではないグリュエーは時折来た方向を振り返る。護女ネガンヌに似た石像が気にかかっているのだ。そんなグリュエーをユカリは気にかける。護女に似た石像、ただそれだけなら良いのだが、救済機構によって石化された可能性を考えてしまう。
「護女ネガンヌさんは友達?」とユカリは尋ねる。
「訊くんだ?」とベルニージュが少し顔をしかめる。
「だって知らないふりはできないでしょ」とユカリは抗弁する。
「ううん。良くしてくれた先輩」とグリュエーが答える。「推奨規定を大きく外れたから還俗した、はず」
実際のところは分からない、というわけだ。これ以上は推測の域を出ないのだろう。ユカリは戻ってモディーハンナを問い詰めたくなる。代わりに話を変える。
「ノンネットが言ってたね、推奨規定」ユカリはアルダニでのことを思い出す。「護女はみんな似た背格好ってことだよね?」
「そうですわ」とレモニカが答える。「わたくしが寺院に潜入した時には沢山の護女をお見掛けしましたが皆さん年齢に関わらず一定以下の背丈でした」
「いずれ降臨する最終聖女、救いの乙女がそういう見た目なんだってさ」とグリュエーは馬鹿にするように説明した。「他にも色々あるよ。特別な力を持ってるだとか。右利きだとか。犬派だとか。運動が得意だとか。長子だとか。末子だとか」
「長子で末子?」とユカリ。
「一人っ子ってことじゃない?」とベルニージュ。
グリュエーは首を横に振る。
「そういう説もあるけどね。要するに大雑把な予言なんだよ。推奨規定には身長体重を初め色々な項目があるんだけど、その一致率が次期聖女選定の判断材料になる、なんてまことしやかに噂されてたね。選定会議は公表されてないから確かなことは分からないけど」
轟々という嵐の唸り声が耳鳴りのように聞こえるところまでやってくる。その風音は静かな秋の実りを伝える微風よりも小さいはずだが妙に耳について聞こえる。
「ここら辺まで来れば大丈夫かな」ユカリは嵐の方を振り返る。
北極圏の海に出現するという螺旋潮流に似た禍々しい黒雲は相変わらず雨風と呪いを掻き回しているが、一方で嵐自体はその場に留まり続けている。
「てっきりグリュエーを追ってきているのかと思ってたんだけどな」とベルニージュが訝しげにぼやく。「ほら、意思に関係なく魂同士が近づくと融合するって話だったでしょ? つまり惹かれ合っているってことだと思ったんだけど」
問われていることに気づき、息を整えてからグリュエーは答える。「惹かれるのは、その通りだよ。でもそれは使命を一切与えなかった場合の話。それにあの魂は呪われているから、たぶん滅茶苦茶に飛び回っているだけだと思う」
「ユカリさまがケドル領のカードロアで嵐に遭遇した時、わたくしとグリュエーはビアーミナ市でお留守番でしたものね」とレモニカが補足する。
あるいは自分を追ってきているのではないだろうか、とユカリは思い悩む。呪われたグリュエー自身が最も辛く苦しいはずだ。ただただ助けを求めているだけなのかもしれない、一年を共にした相棒に。
「気づいたんだけど」とユカリは発してから訂正する。「というか確認したいんだけど。グリュエー、なんで魂を自在に操れると呪いを防げるの? 今の話だと魂を呪いに憑依させることも、呪いを操作することもできないってことだよね?」
岩肌を伝う冷たい水が滴るようにグリュエーの表情から焦慮が滲みだしていた。知られたくない事実に近づいたらしい。
「たぶんだけど」ベルニージュが説明を試みる。「切り離した少量の魂を身代わり、というか囮にしているんじゃない?」
グリュエーの表情の変化は推測の的中を表している。
ユカリはベルニージュとジニの表情から察しつつも、繊細な桃色の内臓を傷つけずに腑分けする時のように優しくグリュエーに尋ねる。「何ともないの? グリュエーの魂と体は大丈夫なの?」
グリュエーは両腕を広げてその場でくるりと回る。「見ての通り、何ともないよ。小さい頃から使ってるけど健康そのもの」
ユカリは初めて見る物珍しい小動物を目の当たりにしたかのようにじっとグリュエーを観察する。
「でも同世代に比べると小さくない?」
「これから大きくなるの! 推奨規定なんてすぐに追い抜くんだから!」
「精神的にも幼い気がする」
「ユカリ失礼! グリュエーは十分大人だよ!」
誰もグリュエーの言い分には肯定しないが、ユカリの意見も支持しない。結局のところ、グリュエーそのものに宿った妖術であり、グリュエー固有の魔法を説明できる者など本人の他にはいないのだ。あるいはその魔法の内奥にクヴラフワ救済の希望を見出し、研究したハーミュラーならば何か知っているかもしれないことにユカリは思い至る。そしてもう一つの推測が生まれる。
「呪われた魂ってどうするの?」とユカリはグリュエーの秘する真実を探し求める。
「切り離すんだよ。グリュエー本体まで呪われないようにね。身代わりなんだから。蜥蜴の尻尾切りみたいにね」
はたしてその状態を身代わりと言っていいものだろうか、とユカリは疑念を抱く。
「蜥蜴の尻尾は生え変わるけど、魂は?」
「普通は増えも減りもしない」とベルニージュが代わりに答える。
「でもほんの少し、ほんの一欠片で事足りるんだよ。何もさせる必要がないからね」とグリュエーが言い訳する。
「それをバソル谷を出た時からずっとやってるわけね?」とユカリは逃げ道を塞ぐように確認する。
グリュエーはこくりと小さく頷く。
「やっぱり」とユカリは得心しつつ浮かない表情になる。「もしかして私がクヴラフワで見てきたハーミュラーさんの幻ってグリュエーが今までに捨ててきた魂じゃない? その魂の記憶を読み取っていたんじゃない?」
ジニが頷く。「少なくとも今までに考えてたどの仮説よりも確からしいね」
その言葉が承認であるかのようにユカリは一歩、グリュエーに踏み込み、釘を刺す。
「グリュエーの妖術、もう呪い除けに使わないでね」
「なんで? 何も失ってないのに」グリュエーは秋に吹く涼やかな向かい風のように反抗する。
「失ってないことにすら気づいていないとしたら? 私が見た幻の光景について覚えてる? あるいは最近思い出したんじゃない?」ユカリはグリュエーを説き伏せるべく断固とした口調で話す。「私が記憶を読み取ったってことは、その可能性もあるよね?」
「十分にね」ベルニージュも頷く。「複写している可能性がないわけでもないけど」
「でも、この力で、ハーミュラーは……。ハーミュラーと……」グリュエーは追い詰められつつも力を振り絞って反論を試みている。
ユカリははっと気づいて自身をたしなめる。
グリュエーのこれまでの人生は魂を操る妖術の力を中心に回ってきたのだ。それを否定することはグリュエーを、ひいてはグリュエーの人生を否定することになりかねない。
ユカリは腰を下ろし、グリュエーに目線を合わせる。
「ごめんね。グリュエー。勝手なことを言った。グリュエーの力はすごいものだと思ってるんだよ。でもだからこそ、その力についてよく知らないといけないし、ちゃんと把握するまでは慎重じゃないといけないと思うんだよ。ハーミュラーもグリュエーの力を研究していたんでしょ? それは同じことじゃない?」
ユカリはしばらくグリュエーの言葉を待つが、目を伏せたグリュエーは涙か嗚咽を堪えているようだ。
「何よりグリュエー自身の魂を扱う魔法なんだから慎重過ぎるなんてことはないんだよ。クヴラフワを救うべきその時にグリュエーが倒れちゃってたらどうにもならないでしょ?」
春も半ばに吹く微風が触れた釣鐘草が辞儀するようにグリュエーが微かに頷いたのでユカリは念を押す。
「一切使うなって言いたいんじゃない。その力を使ってくれていなかったら、私はここまで来れなかった、どころかずっと前に死んでたよ。何回もね。ただ、今は解呪の魔導書があるからそれを使って欲しい。グリュエーの変身した姿も見たいしね」
「うん」とだけ、ユカリの小さな相棒は呟いた。
「さあ、まさに今だよ」とユカリはグリュエーを鼓舞する。「あの嵐を解呪して、私の相棒を取り戻して」
「そのことなんだけど、解呪する前に一つ提案がある」とベルニージュが水を差す。