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各々の視線が一斉にベルニージュに注がれる。
「提案って?」とユカリが代表して尋ねる。
「あの嵐、まさに残留呪帯と同じ、魔法の混沌状態だったよね。グリュエーには悪いけど、あの嵐の中なら謎の闇こと深奥への穴を開けるための条件が揃ってるんだよね」
「今ここで開くの?」とユカリは疑義を唱える。「そういえばここへ来る時に残留呪帯で何もしなかったのはなんで?」
それは二人の強力な魔法使いに対する質問だ。
「単純に危険だからさ」とジニが説明する。「深奥への穴を開いても残留呪帯の中では実験もままならないしね。一方で期待していた巨人の遺跡は、ネークの塔の例を見ても分かるけど出現した後に魔法の混沌状態が失われ、秩序を取り戻さなければ発見されることはない。つまり実験が成功する可能性が低い。そんな偶然が起きるまで、クヴラフワ衝突から約四十年かかったのが良い証拠だよ」
「その点、今の状態は他にない好条件なんだよ」とベルニージュが引き継ぐ。「深奥の穴を開いた直後に嵐の呪いを解呪すれば安全に調べられる。混沌が収まってからどれくらい保つのかも把握できる」ベルニージュはユカリの反論を見越したかのように続ける。「それに一回限りの嵐を差し引いても、時間と回数は限られてる。言っちゃなんだけど――」
ベルニージュが言いかけた言葉をジニが主導権を奪うように引き継ぐ。「このままクヴラフワの呪いを解き続けて、この地から全ての呪災を取り除いたなら好条件の実験はできなくなるってことだね。もちろん誰もクヴラフワを救っちゃいけないなんて言わないよ。ただエイカを救う試みのために少しばかり救済の時を先延ばしすることにはなるがね」
ベルニージュもジニもただ正直なことを言っているだけなのだということをユカリは痛いほど理解している。ユカリがちらとグリュエーを盗み見ると、グリュエーは膨れっ面でユカリを見上げていた。
「ユカリがクヴラフワに来ていなかったら一つの呪いも解けてなかったんだよ。少しくらい先延ばしになったくらいで誰にも文句は言わせない。もちろん嵐自身のこともね」
ユカリは覚悟を胸の裡に迎えるようにしっかりと頷く。「ありがとう。グリュエー。ありがとう。みんな。でも一つだけ私からもお願いさせて。実験は迅速に、そして大胆に。私は深奥に行く」
「いや、待って」ベルニージュが鋭く言葉を返す。「入るのはまだ先だよ。こういうのは順序があるんだから」
「そんなぐずぐずしてたら私がクヴラフワを救っちゃうよ。それに魔法的に最も安全なのは魔法少女でしょ?」
ベルニージュが不服そうに頷いて渋々肯定する。
「あと言い忘れてたけど、私このままだと穴に飛び込むまでもなく消えちゃうんだよ」
疑問符を浮かべる面々を前にしてユカリは思い切って上衣を脱ぐ。ユカリの胴体は完全に失われ、鎖骨の辺りから上が空中に浮いていた。母なる大地の全てを抱く重力の腕もこの奇妙な上半身を拒んでいる。下は臍の少し上辺りで寸断されていた。
レモニカが声にならない声を上げてその場に崩れそうになり、ソラマリアが支える。ベルニージュとジニは予想していたようだ。グリュエーは目を丸々としている。話はしていたが直に見せるのは初めてだ。
「助けに行くのでなく、助けを待つ身になっちゃう。その前に行動したい」とユカリもまた覚悟を示した。
最終的にはレモニカ以外が同意し、レモニカも反対はしなかった。
そうと決まった途端、ユカリたちの方へと再び嵐が接近し始めた。気まぐれにしては間が悪い。
「グリュエー。ほら変身変身。私が深奥に飛び込んだら嵐を浄化して魂を取り戻さないと。これまでの旅の思い出話もできないよ」
「分かってる! 今変身しようとしてたの!」
グリュエーは魔導書の腕輪に輝く翠玉に触れて、意識を集中させる。
するとグリュエーを中心に麗らかな日和に時折見られるような小さな旋風が巻き上がる。着古されてほつれ、長旅にくたびれた護女の僧衣がはためき、乱暴に引き千切られる。そして新たに若葉の如き瑞々しい緑の薄絹がグリュエーの体を覆う。窮屈そうにぴったりとした護女の僧衣とは打って変わって、まるで赤子のお包みのように少女をふわりと包み込む。大きな襞のついた裾の一揃いはゆったりとして、軽やかで、非力な春の妖精の纏う衣のようだ。
また風の運んできた履物には可憐な赤い羽根があしらわれ、グリュエーの小さな足を覆う。
最後にもたらされた風は、宵闇の如き羽織をグリュエーの肩にかけ、熱き風吹く海の陽気な波の如き優美な模様の彫刻を施された鍵盤を目の前に据える。
「わあ! グリュエー可愛い! そんなにおめかししてどうしたの?」とユカリがからかうと、
グリュエーは耳を赤くして怒鳴る。「もう! いいからさっさと深奥に行きなよ!」
嵐を迎え撃つべく身構えるグリュエーから離れてベルニージュとジニの間に挟まる。
「念のためにユカリにもやり方を教えておくよ」とベルニージュが切り出す。
「深奥の扉の開き方? そういえば大袈裟な儀式が必要って話じゃなかった。準備はいいの?」
「大袈裟な儀式が必要なのは残留呪帯みたいな混沌状態を作るためさ」とジニが代わりに説明する。「それが省略できるって話。で、あたしらが巨人の遺跡で手に入れた魔術は、その混沌を凝縮して空間に穴を穿つような魔術だね。こっちは混沌状態さえあれば偶然に深奥の扉が開くことさえあるくらい簡単な魔術さ。だからこそあちこちで遺跡が現れたわけだ」
説明をすっかり呑み込めたはずなのでユカリは自信たっぷりに頷く。「なるほど。私でもできるってわけですね」
「できないと思うけど」とベルニージュは礼を失する。「だから念のためだよ。ザンザは覚えてる?」
「【穿孔】、最後の穴、罠、盃、器、苗床、秘密、深淵、中心、虚無、真実。巨人もユカリ文字を使ってたの?」ユカリはベルニージュがぽかんとしていることに気づき、言いたいことにも気づく。「言っておくけどもう全部覚えてるからね。少なくともベルに貰った教本の内容は」
「ごめん。ユカリは見えないところで努力する派なんだね」
「ベルは違うの?」
負けず嫌いはいかにも隠れて努力しそうだとユカリは思った。
「ワタシは努力を努力と思わない派だよ」ベルニージュは誇らしげに答える。「とにかくそれなら話が早い。さっきの質問だけど、巨人の魔術をユカリ文字で再構成した。もっと時間があればもっと洗練させられたんだけどね。できるだけ使い勝手のいい魔術にしたよ。ユカリにとってね」
ベルニージュが意味深に目配せする。その意味はすぐに分かる。
【上昇】、【崩壊】、【邪視】、【祈雨】、【浄化】、そして【穿孔】という六つのユカリ文字を使って呪文を唱えなくてはならない。とはいえユカリ文字の名前は愛称のようなもので正確には発音などなく、ただ力を示しているに過ぎない。そこでベルニージュとジニは手話を使って呪文を構築した。
「これ、出入り口を動かす魔術に似てますね」とユカリは少し嬉しそうに話す。
「ああ、あんたがエイカから学んだって聞いてね。できるだけ似せたんだ」心なしかジニも嬉しそうだ。「あの子があの魔術を覚えてるなんて知らなかったよ」
「存在する扉じゃなくて何もない空間に仮想の扉を想像して呪文を施さないといけないから少し難しいかもしれないけど」とベルニージュが補足する。
「隠れて練習できないのが残念だね」
ユカリは嵐が迫るのを凝視しながら呪文を素振りする。魔法の混沌状態でなければただの手振りであり、簡素な踊りだ。
ユカリはベルニージュの手ほどきで何度も魔術を修正されながら嵐を迎え、風と雨と呪いを浴びる。