テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
土砂崩れの夜が明けた。
朝になれば少しは弱まるかと期待した雨だけど、しかし希望に反して雨脚は勢いを大きく増していくばかりだ。
命恋姉さまの心配が、現実になるかもしれない。
これまで都は幾度となく増水の被害に遭ってきた。被害も大きく、人もたくさん死んでいる。災害に乗じた盗人も多い。その辺は実によく知っている。
――晴明さまは、大丈夫かな……。
あの飄々とした人がまさか、と思うけれど、一度芽吹いた心配は止まらない。悲田院のこともある。せめて様子を見に行って、無事だとこの目で確かめたい。
わたしは他の姉さまたちにも訴え、みんなで陸燈の局にお伺いを立てるけど……。
「分かるけどねえ」
脇息にもたれながら、陸燈姉さまは正座で並ぶこちらを流し見た。
「相手が穢悪ならいざ知らず、雨が相手じゃ敵わないよ。あたしは晴明さまから、あんたたちを預かってるんだからさ。ご無事を見たいのはあたしも一緒だけど、危ない目に遭わせんのはどうもねえ……」
陸燈姉さまが渋ると、
「あ、私はヨルと同じ意見でーす」
ここで命恋姉さまが軽い調子で手を上げる。
「私たちって、都を安んじるのもお役目ですよね?。確かに雨はどうにもなんないですけど、私がいたら弱ってる人がいても、そっと治せると思うんです。雨がこんなだから、誰も私の顔なんて見えないと思いますしぃ」
「ふーん……」
陸燈姉さまはその端正な顔立ちを困らせ、「……じゃあ、命恋に夜火」と、視線でわたしたちを指し示す。
「なにもないのに、ここを留守にはできないからね。あんたら二人で行ってお出で。夜火は必ず命恋を守ること。命恋は無茶な行いはしないこと。人間たちもいいけど、晴明さまのご無事を確認すること。あと」
「あと?」
「……ついででいいからさ。もしあんたらに余裕があるなら、左京の三条大路の辺りも見て来てくれないかい?」
と、やり取りがあって都に来たけど、状況は思ったよりひどかった。
「あっち! あっちにも人が倒れてます!」
「なんてーっ?」
「あっちに! 人が! 倒れてまあっすっ!」
大声を張り上げたけど、たぶん命恋姉さまの耳には届いていないだろう。しかし彼女はわたしの仕草で意味を受け取ってくれて、指さす方へと向かって行った。
横殴りの雨は目の前を御簾で仕切るようで、都の西側では、堀川から泥水があふれ出していた。
雨脚はずっと凄まじいままで、まるで音の壁に阻まれたよう。まともに話すのは難しくって、一寸先に見えるものすらぼやけている。
たぶん命恋姉さまの目やカンで作業は難しい。だから代わりに耳目が他の鬼女より利くわたしが、彼女の目となり耳となっているのだ。
わたしたちは市女笠を顎紐で固く結び、腰まで水に浸かりながら、流される人たちを懸命に助けていた。
そうして昼方までに、なんとか十人も救い出しただろうか。
徐々に弱まった雨脚の中、二人で各地を確認しに足を飛ばす。晴明さまの本所がある土御門の辺りは被害がちょっとで、悲田院辺りの無事も確認。陸燈姉さまの言っていた辺りも人死にまではなさそう。心底、安心した。
で、そろそろ頃合いと判断すると、
「じゃあ、ヨル、帰ろう。私ももう呪を出し切ったし」
「わたしもヘトヘトです」
と、頷き合い、都をあとにした。
やれることは、やったのだ。都に少しは罪滅ぼしができたかもしれない。スケも無事でいるといいけど……。
わたしたちは都から離れると速度を落とし、重い体を引きずり泥道を歩く。原っぱの草たちは葉先に水滴を溜め、わずかに射し始めた陽の光を薄く反射していた。今回は鬼女の体をもってしても、なかなかの厳しい働きだった。
「こりゃきついわぁ」
歩きながら肩を鳴らし、命恋姉さまが言った。
「ね、ヨル。いま、例の穢悪が現れたら、ちょっと厳しいよねー」
「例の?」
「なんか、みんながずっと言ってるでしょ? 都の飢えとかの怨が高まってるって。私カンが鈍くて分からないけど」
「恐いこと言わないでください」
「ま、私たちはこうやって人を助けて、地道に怨を防がないと」
命恋姉さまは都の方を眺めたあと、
「それにしてもヨルって偉いね」
こっちを向いて、ふとそう言った。全く予期しない言葉だった。
「どうしてですか? カンが利くから?」
「意味違う」
命恋姉さまは笑う。
「あんたってさ、都でいじめられてたクチでしょ? なのに悲田院には布施するし、今回も人助けなんて偉いなーって。私があんたなら、ほっとくかもね。坤鬼舎の鬼女が都を助けるのに乗り気じゃないの、その辺もあるんじゃない?」
「わたしも、いっぱい悪いことしちゃったし」
へへへ、と笑って誤魔化した。
もちろん思うところがないわけじゃない。自分の心の奥の奥まで覗けば、たぶん真っ黒な泥が煮詰まって濃い瘴気を放っていると思う。色んな言葉をかけられたし、子分たちからだって……。
だけど晴明さまがそこにフタをしてくれた。それに悲田院で見たあのお坊さんみたいに、鬼女をちゃんと扱ってくれる良い人もいる。良い人を見るのは好きだし、希望が持てる。
やっぱり陽に照らされて生きる方が、楽しいし楽だ。
わたしは、楽な方がいい。
「……でも鬼女なんて、みんなそうでしょう? 嫌なこと背負って」
話題を変えようと命恋姉さまに話を振る。
「んー。私はヨルたちとは、ちょっと違うかしらねー」
「そうなんですか?」
「まあ鬼女だから、私も生まれてすぐ捨てられたんだろうけど。そのあとは、別に差別されてきたわけじゃないのよ」
「それは……。いいですね」
「ん、そうね。良かった。そういう人もいる。だから人間が嫌いなわけじゃない。たぶんヨルと一緒」
命恋姉さまは白い歯を見せ、
「あ。太陽が」
と、額に手を立て、雲の切れ間から覗く陽の光を見上げた。
太陽に撫でられた命恋姉さまの灼けた肌は、一仕事を終え泥だらけになり、いっそうその美しさを増していた。陸燈姉さまの透けてしまいそうな肌も綺麗だけど、わたしは命恋姉さまの肌艶が一番好きだ。
「さ、ヨル。早く帰ろ。いまなら雨漏りの修繕もできそうよー」
「はい!」
「もし新枕になって、雨漏りしたら嫌よねー」
「新枕」
顔が熱くなり俯くと、命恋姉さまは笑いながらぬかるんだ地面を蹴った。
わたしもそれに続いて彼女の背中を追いながら、どうしてこの人は坤鬼舎に来たんだろうと思った。明るくて、屈託がなくて、優しい姉さま。
今度尋ねてみようかな、と思い、頭を振ってその考えを頭の外に掃き出す。
命恋姉さまだって鬼女。
世間が受け入れを嫌がる穢れに、なにもないわけがないんだから。
※
命恋
額に生えた二本のツノが原因で、生まれてすぐ捨てられていたらしい。
私を拾ってくれた老婆が話すので、世の中はそんなもんかと思っていた。
老婆と私は桂川の川辺に屋根を立て、その下で暮らしていた。人の通りはほぼない場所で、時折遠くに誰かが通りかかるくらいだった。
そこで私たちは腹が減ったら鮎を捕り、鮎がいないときは草や根を煮て食べる生活を送った。
老婆は私を大変に可愛がってくれた。折に触れ自分も家族に捨てられた身であり、私を他人とは思えないと言っていた。二人きりだが、ときは安寧に柔らかく流れていた。
「人を恨んじゃいかん」
老婆は口グセのように言っていた。
恨みはやがてバケモノになる。バケモノは人を食う。
老婆は目尻のシワを深くして、私にそう諭した。
しかし私が言葉の意味を悟る前に、老婆は死んだ。
しばらく屋根の下に寝かしていたが、腐ってウジが湧くので穴を掘って埋めた。
私はこれまで通り、腹が減ったら鮎や草を取って暮らした。生活は変わらないのに、何故か老婆を思うと涙が頬を濡らした。
温かくなり寒くなりを繰り返したが、私はいつもいつまでも一人だった。
その内に寂しくなって老婆を掘り起こしたが、そこに老婆はおらず彼女の白骨が埋まっているだけだった。私はしゃれこうべを抱き、寂しさに泣く日々を送った。やがて私の乳房が膨らみ、血穢がやってきても、ずっとそうだった。
なにもなかった。
無の夜がずっと続いていた。
しかし転機が訪れるのはいきなりだ。
「遠くからでもお前の目はよく利くな、陸燈。本当にツノが生えている」
声と共に現れたのは、ちゃんとした着物をまとった男と女だった。
どこかしらで私を見付け、わざわざこの川辺まで足を運んで来たらしい。私はほとんど裸で、対峙するのが少し恥ずかしかった。
「穢悪を祓いに行った帰りで、思わぬ収穫だなあ。そなた、名は?」
深い空色の目をした若い男は、なにかを尋ねてきた。
だけど私は人との会話が久しぶりだったし、彼の質問の意味もよく分からなかった。それにどうしても気になるのが、男の手だ。
「手、手……」
喉に言葉がへばりつき上手く喋れなかったが、私はなんとかそう発声した。
男は不思議そうに自分の手を見て、そして笑った。
「心配してくれるんだね。しかし深い傷じゃないから。鬼女はやはり優しい」
「手……」
私は無理に男の手を取った。女が気色ばんだが、男が諫めた。
男の手は傷付いていた。私はそれを治せると思った。昔から、私には体の傷を治す力が備わっていたから。老婆にはずいぶん褒められ、嬉しかった。
「これは……。いい呪だ」
傷が癒えた手を見て、男も私を褒めてくれた。私は人と話したことも、褒められたことも、そして背後にいる女が私と同じようにツノが生えていたことも、なにもかもが嬉しかった。嬉しくて流す涙は、初めてだった。
そうして私は、誘われるまま坤鬼舎の鬼女になった。
命恋と名を与えられたその場所では、働けばクズだが野菜も食えるし、雑穀も口に入る。着物も着られる。暮らしに必要な知恵も教えてもらえた。晴明さまを男君として愛しているわけではなかったが、嫌ではないしこの世の習いと思い求めには応じた。周りにはいつも誰かがいて、寂しさは感じなかった。
生活は変わった。場所も含めてなにもかも。
だけど老婆のしゃれこうべは、いまでも私の宝物だ。
私は老婆を愛しているのだと、ここに来て初めて知った。
※
深い茶が艶めく主殿の板間。
「お前たちになにかあったらどうするの」
そこには既に晴明さまが円座にあぐらをかいていて、強い口調で正座するわたしと命恋姉さまを責めた。てっきり褒めてくださると思ったのに。
なんでも晴明さま、都の御屋敷が増水で泥だらけになったから、あと片付けを下人に任せて自分はこっちに逃げて来たらしい。なのにわたしたちにはお説教なんて、ちょっと得心がいかない。
「陸燈からも止められたんだろ?」
晴明さまは言い聞かせるように、コンコンと板間を指で叩いた。
「なのに危険な場所に行くなんて正気じゃない。人間は吐いて捨てるほどいるけど、穢悪を祓うのはお前たちにしかできないんだから。自分の値打ちを知りなさい」
「そんな言い方ひどいです」
尖った言葉に、床の木目を見ていた視線を上げる。
「値打ちを認めてくださるのは嬉しいですけど、わたしたち都を守るお役目があるんだし、晴明さまだって大切です! 人を見捨てるって、そういうの、なんか上手く言えないんですけど、その……」
「私は逃げ上手だからね、心配いらないよ」
「だけど!」
「それに人には役割があるの。お前たちの役割は災いから人を助けることじゃないでしょ? むしろ大きな災いなんか起こるとね、死穢によって怨が溜まるんだよ。都の怨だってずっと兆候があるしね、いつ穢悪になるか分からないんだから」
「かもしれないですけどぉ……」
晴明さまは口調を緩めない。わたしは助けを求めるように命恋姉さまを見るけど、彼女は我関せずとばかりにうつらうつらと睡魔と戦っていた。強い。
「――と、まあ、一応こう言っておかないとね」
しゅんとすると、晴明さまは仕方ないなって苦笑いを頬に宿した。
「一応?」
「私のためにしてくれたことだしね。それに分かっちゃいるんだよ。私は余計だと思うんだけど、そういう情がお前たちを鬼女たらしめているなら、もう仕方ないんだろうね」
「そんな、天女のようなんて」
「そこまで言ってない」
冗談を言うと、晴明さまに軽く頭を小突かれる。
「でも覚えておきなさい、夜火。鬼女の情も結構だけどね、その甘さが命取りになりえる。気を付けるんだよ」
「御意に」
と返事をして、さあ、お説教の刻は終わり。腹が減ったし夕餉を頂かないと。胸を弾ませ立ち上がろうとすると、
「主」
主殿の前から、今度はモリの声が聞こえた。
見ると珍しく彼が鳥居の中まで入ってきていて、砂利に跪いたまま窺うように主殿の晴明さまを見つめている。眉に隠れて眼差しの具合が分からないけど、口調はなにか困っているようにも感じられた。
「どうした」
晴明さまが開いたままにしてある主殿の戸に向き直る。
「変事と言いましょうか……。ご判断を仰ぎたく」
モリはうしろに隠していたなにかを、跪いたままで献上するように頭上へと掲げた。
見るとそれは彼の着物で包まれたなにか。
板敷の床に立って中身を覗き込むと、
「わぁ……」
と、長いお説教で腹が減ったわたしの頬さえ緩めてくれる。
包みの中身は悶絶しそうなほど愛くるしい、人間の赤ん坊だった。首さえまだ据わってなさそう? 薄い髪が風になびき、目を閉じすやすやと眠っている。
「どうしたんだい。モリの子?」
「からかってくださいますな、主。こちらへ続く小路の前に、裸のまま捨て置かれておりまして」
「ウチの誰かの子……、ってわけじゃないよねえ」
晴明さまは難しい顔をして、うーんと唸る。
坤鬼舎は周辺の穢悪を祓う関係で、近くの集落からは信仰に近い念を持たれているとか。日用の道具を買う関係で、鬼女の存在を知る集落もあるらしい。なら、そういう力を頼っての捨て子の可能性もある。
「やっぱり捨てられたのかなあ」
「鬼女でもないのに。口減らしかな」
命恋姉さまがいつの間にか起きてきて、わたしの言葉に続いた。
そして二人して晴明さまをじっと見つめ、御沙汰を求める。眼差しには精いっぱいの期待を込めたけど、
「いやいやいや、無理だよ、無理」
晴明さまはわたしたちの意図を察し、慌てて首を横に振った。
「残念だけどね、そういう仕事はウチの預かりじゃないの。役目があるって言ったばかりでしょう。捨てられたのは可哀想だけど、使いを出して渡りは付けておくから、明日でも悲田院に預けてきなさいな」
「そんなぁ」
わたしも捨て子で、坤鬼舎がなければどうなっていたか分からなかった身だ。この子は人間だけど、かつての自分と重なる。
「ねえ、晴明さま。いまの都は大雨の始末で大変だし、悲田院でもちゃんと見てくれるか不安です。せめて少しだけでも……」
「それにこれ、坤鬼舎のためでもあると思います」
命恋姉さまもわたしに続いて声を上げ、晴明さまはどういうこと? って目。
「だって私たちのお仕事って、いずれお生れになる晴明さまのお子のお世話も含まれますよね?」
「ん……」
晴明さまが下唇を突き出し、渋い面相をする。なにを言われるか想像付いたらしい。
「だけど坤鬼舎の鬼女って、だーれも赤ん坊の世話なんかしたことないですよ。これまでほとんど人と関わらなかったんですから。いきなりポーンと生まれてきても、上手くお世話できるか不安でーす」
「で、この子の世話で慣れておきたいと?」
眉根を寄せる晴明さまの質問に、命恋姉さまはにっこり。するとときを同じくして赤ん坊が目覚め、元気のいい泣き声を坤鬼舎に響かせた。