テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
レジで受け取った長方形の箱と平袋を アビゲイルは丁寧に鞄へ収めた。
緩衝紙の擦れるかすかな音まで
ひとつの儀式のように胸へ降りてくる。
これで〝祭殿〟の土台は整った──
そう自分に言い聞かせ
踵を返しかけたその時だった。
「⋯⋯あら?」
足が止まる。
通りの先、石畳を挟んで向かい側の広場に
見慣れた背中があった。
濃い黒を艶やかに湛えた長い髪を一束に編み
肩甲の下でゆるく揺らす。
上階へ向かって段差を重ねる屋根
黒鉄の手摺が連なるバルコニー
白亜の壁面に映えるモールディング──
気品ある高層の建築を、彼は見上げていた。
(どちら⋯⋯?)
背中だけでは判別がつかない。
〝アライン〟か、それとも〝ライエル〟か。
アビゲイルはルキウスを肩に乗せたまま
驚かせぬ距離までゆっくりと近づき
息を整えて声を置く。
「こんにちは」
わずかに顎が動き
横顔がこちらを捉えた。
眼差しは氷のように澄み
口元だけが玩ぶように動く。
「⋯⋯やぁ、アビィ。
ライエルだと思って、声をかけたわけ?」
昨日の記憶が胸をよぎる。
だが、アビゲイルは微笑みを崩さなかった。
「お疲れ様でございます、アライン様。
どちらであっても
もちろんお声がけいたしましたわ」
「⋯⋯あっそ」
素っ気なさの奥に、拗ねたような微かな色。
(時也様の仰る通り
少し〝拗ねて〟いらっしゃる──)
アビゲイルが胸中でそっと頷くと
彼の視線が再び上方へ戻る。
「何をご覧になっておいでですの?」
「⋯⋯話してもいいけど?」
わずかに肩を竦め
アラインは顎で建物を示した。
「ノーブル・ウィルが経営する
集合邸が完成したんだ。
メンバーの住居、それから──
孤児院で成人して自立する子たちのための
支援型フロアも用意してある」
白い外壁は朝の光を受けて柔らかく反射し
黒鉄の連子が影の文様を石畳に落とす。
入口の庇には浅いアーチ
扉脇には小ぶりのランタン。
街並みに溶け込みながらも
明らかに周到な計画性が通っていた。
「まあ⋯⋯なんて素敵な⋯⋯!」
アビゲイルの胸に温かなものが灯る。
「下層は⋯⋯お店、でございますか?」
「そう。
これから時也に話に行くつもりなんだが
喫茶桜と提携した
地域貢献型のカフェを入れる。
それと──」
彼は口角をわずかに上げる。
「Schwarz〝以外〟にも
情報収集の動線は必要でね。
ボクがやってるエステサロン
『Bell』の分室を一階へ置く。
慈善だけじゃ回らない。
働き口の受け皿も増やすべきだし
ノーブル・ウィル傘下の事業を増やせば
これから人数が増えても困らない」
整然と、だが冷ややかではなく。
生活の匂いと矜持の匂いが
彼の言葉の背で同じ温度を持つ。
「⋯⋯アライン様。
そこまでスタッフや子どもたちの将来に
心を砕いてくださっているのですね」
「ふん。当然だろ?」
振り返りざま
彼のアースブルーがわずかに笑う。
「そのこと──
ちゃんと時也にも〝伝えておいて〟ね」
「はい!承りましたわ」
アビゲイルは一礼し
肩のルキウスが重低音で続ける。
「見事な構えにございますな。
人が住むに相応しい〝器〟とは
こういうものを申すのでしょう」
「でしょ?鳥の癖に、見る目あるじゃん」
アラインは軽く鼻で笑い
視線を建物から街路へ滑らせた。
並木の影、舗石の継ぎ目
遠くから香る焼き菓子の匂い──
この街の呼吸が
彼の掌の内に収まっているかのようだ。
アビゲイルは鞄の外から
中の包みを確かめるように触れ
静かに息を吸う。
(私も、私にできる形で
新たな〝家〟を整えなければ)
〝祭殿〟はただの趣味ではない。
祈りを正しく鎮め
加護を律するための、小さな聖域。
あそこで生きる人々が
穏やかに朝を迎えられるよう
己の熱を、秩序に変えるのだ。
「それでは
わたくしは、これから生活必需品の
買い出しに向かいます。
戻りましたら──
時也様に、今のお話を
余さずお伝えいたしますわ」
「助かるよ、アビィ」
アラインは踵を返し
長い黒髪の編みを揺らす。
去り際、振り向かずに一言だけ落とした。
「⋯⋯〝居場所〟を作るのは建物じゃない。
そこに流れる意思だ。
間違えないでね?」
「ええ。肝に銘じます」
石畳に白昼の光が流れ
並木の葉が編む影が
まるで繊細なレースを地面へ縫いとめていた。
アビゲイルは鞄の口金を指先でそっと合わせ
微かな金属音を胸の奥に沈めると
踵を返して軽やかに歩み出す。
白亜のファサードに黒鉄の手摺
半月形の庇が連なる連続アーチ──
この街ならではの優美な意匠が
視界の端から端まで途切れなく続き
彼女の心臓は高鳴りを忘れなかった。
新しい〝祭殿〟の配置
中央に掲げるべき象徴
左右を固める小像
光を受ける反射角まで思い描きながら
買い物の続きを──
そう、思った刹那である。
横合いから叩きつけるような質量が
風より速く、思考より先に
彼女の身体をさらった。
「──きゃ⋯⋯っ!」
肺の奥から押し出された声は
空気に触れる前に締め上げられた。
肩口が引かれ、腰が決まる。
関節という関節に冷たい蛇のような圧が絡み
自由は瞬時に剝ぎ取られる。
肩にいたルキウスが
羽音だけを置いて宙へ跳ね上がり
円弧を描いて上空で制動
沉着に現場を俯瞰する。
何が起きたのか──理解が追いつかない。
鼓膜の内側で
自分の鼓動だけがやけに大きく響き
世界は輪郭を失って白む。
喉もとに、氷のような冷ややかな感触。
──ナイフだった。
視線だけを落とし
刃と皮膚の間に
呼吸ひとつ分の余白があることを確かめる。
わずかだが
確かに残された──〝生の余白〟
「おい!クソ神父!!」
耳朶を打つ怒声が街角を裂いた。
つい先ほどまで
菓子屋の甘い匂いと
子どもの笑い声が流れていた通りは
波紋のようにざわめきを繁殖させ
人々は立ち止まり
視線という無数の刃をこちらへ突き立てる。
「てめぇ⋯⋯!
俺の仲間を懐柔しやがったのか!?
仕事ほっぽって
その高い建物を建ててるのを見たって
奴がいる!!
〝商品のガキども〟を
横取りしただけじゃ飽き足らず
仲間まで攫いやがって⋯⋯っ!」
声の主は
アビゲイルの背を捻り上げている男だった。
汗と油の臭気
刃の背を握る手にこびりつく
焦げた革の匂い──
粗暴という語が
生ぬるく思える獣めいた近さ。
刃先は呼気に合わせて震え
その度に冷たさが喉元へじわりと喰い込む。
「五月蝿いなぁ⋯⋯
せっかく少し
機嫌が治ったばっかなんだよね、ボク」
ゆっくりと、背中越しに声が返る。
振り返ったその眼差し──
アースブルーの光は
冬の湖面のように深く冷たい。
白い指で
橋の欄干のような手摺を軽く叩きながら
彼は退屈を持て余す子どもの顔つきで
こちらを見た。
「動くなっ!
一歩でも近寄ったら⋯⋯
この女の首を掻っ切るぞ!!」
男の喉は空気を裂くほどに膨れ上がる。
刃はさらに密着を増し
アビゲイルの皮膚を冷ややかに撫でた。
眩暈のような恐怖が迫り上がるが
彼女は奥歯を噛み締める。
「⋯⋯はぁ。
こんなに視線が集まってちゃ⋯⋯
〝派手に遊ぶ〟のは
やめとくしかないんだよね」
アラインは肩を竦め、口元だけで笑う。
「でも勘違いしないで。
降参って意味じゃない。
ボクは──その子の首に傷がつく前に
いくらでも〝君の腕を落とせる〟」
「ハッ!
同じこったろ、近寄れねぇならな!」
男が嘲る。
その瞬間、桃色の翼が視界を裂いた。
「下賎なる者よ!
主人から、その穢れた手を退け!」
ルキウスが視界いっぱいに両翼を広げ
光の反射を乱反射させながら
男の瞳へまっすぐ突っ込む。
鉤爪が閃き、睫の上で風が鳴り
男は反射的に刃を振り回した。
「──うわっ!なんだ、この鳥はっ!!」
出鱈目な弧を描く刃が陽光を跳ね返し
銀の線分が空間に幾本も刻まれる。
だが
ルキウスは空気の糸を綺麗に踏むように舞い
紙一重で刃圏を抜ける。
「ほらね?隙だらけだ」
アラインはなお、一歩も動かない。
白亜の壁面に映る影だけが
彼の存在を確かめる。
「今、ボクから目を離した。
その一瞬で、ほんとはキミ──死んでたよ?」
唇の端がわずかに吊り上がる。
その表情は
劇場の桟敷席から余興を愉しむ
観客のものだ。
周囲のざわめき
硝子越しに覗く店員の怯えた顔
横断歩道の端で立ち尽くす老婦人の杖の震え──
すべてが、舞台の〝効果音〟に変わる。
アラインにとって
命の攻防など遊戯にも等しい。
そして今この瞬間でさえ
アビゲイルの喉をなぞる恐怖は
彼を退屈から救う一幕の見世物に過ぎない。
刃先は呼吸の脈動に合わせて
わずかに上下する。
アビゲイルは視線を落とし
〝生きる余白〟が
まだそこにあることを確かめる。
彼女は
救いを祈る声を鎖で縛るように
胸の内へ押しとどめ
ただ一拍、静かに息を吸った。