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Mami
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第5話 始まりの場所と、不完全な恋の記憶
ココアの夜から、俺たちの関係は少しずつ変わり始めていた。
ネスは俺を怖がらなくなり、俺もまた、かつての「主従」という枠組みを捨て、一人の男として彼に接するようになった。
けれど、あいつの記憶の扉はまだ固く閉ざされたままだ。俺は一か八かの賭けに出ることにした。
「ネス、今日は少し遠出するぞ。準備しろ」
「はい、カイザー。どこへ行くんですか?」
「お前と俺の、始まりの場所だ」
車を走らせること数時間。たどり着いたのは、ミュンヘン郊外にある、街を一望できる静かな高台の公園だった。数年前の秋、俺がネスをチームの相棒としてだけでなく、一人の男として隣に置くと決めて、告白した場所。
*夕暮れ時の公園は、黄金色の光に包まれていた。冷たい秋風が、ネスのハシバミ色の髪を揺らす。
「……ここは」
ネスは車を降りた瞬間、息を呑んで周囲を見回した。
「見覚えがあるか?」
「はい……。すごく、よく知っている気がします。胸が、ぎゅっと締め付けられるみたいに苦しくて、でも、すごく温かい場所……」
俺はネスの手を引き、当時と同じベンチへと歩を進めた。あの日は、今日みたいに風が強くて、俺の傲慢な誘いに、ネスは今にも泣きそうな顔で頷いたのだ。
「なぁ、ネス。ここで俺はお前に言ったんだ。『お前のこれからの人生、全部俺に投資しろ』ってな」
「え……?」
「そしたらお前、なんて返したと思う? 『喜んで、僕の神様』って、泣きながら俺の服にすがりついてきた」
俺はネスの方を振り向き、その細い肩をそっと掴んだ。
「サッカーの相棒としてだけじゃねぇ。俺はお前を、俺だけの男にしたかった。だからここで、お前にキスをしたんだ」
ネスの瞳が、大きく見開かれた。その瞬間、あいつの脳内で、パズルのピースが激しく噛み合うような音がした。
*
「――っ、あ、あ、ああ……!!」
ネスは突然、頭を激しく抱えてその場にしゃがみ込んだ。これまでの苦痛の叫びとは違う。それは、堰を切ったように流れ込んでくる膨大な記憶の奔流に、脳が悲鳴を上げている声だった。
「ネス! 大丈夫か!?」
「カイザー……! 眩しい、夕暮れ、の……。あなたが、僕の、顎を掬って……『俺のものになれ』って……っ」
ネスの脳裏に、断片的な映像が鮮明に蘇っていた。
夕日の逆光の中で不敵に笑うカイザーの顔。
初めて触れ合った、少し痛いほどの熱い唇の感触。心臓が破裂しそうなほどに跳ね上がった、あの日の恋の衝動。
「思い出した……。僕、カイザーに、告白されて……すごく、嬉しくて……っ! 僕は、あなたの犬じゃなくて、あなたの……恋人、だった……っ!」
ネスの目から、涙がボロボロと溢れ出す。
しかし、あいつはすぐにまた、苦しそうに顔を歪めて自身の胸をかきむしった。
「でも、その先が……! 付き合ってからの、あなたと過ごした毎日の、細かい思い出が……まだ、霧がかかって見えないんです……っ! どうして、一番大切な、あなたとの日々が思い出せないの……っ!」
全てではない。付き合ったという「事実」と 「その瞬間の感情」は戻った。けれど、そこから事故に遭うまでの、二人が積み重ねてきた愛の日常は、まだ深い闇の中に沈んだままだった。
*
「うあ、あああ……っ! ごめんなさい、カイザー、ごめんなさい……っ!」
不完全な記憶の戻り方に、ネスは悔しさと恐怖でパニックになり、地面に涙を落としながら謝り続ける。
そんなあいつの姿を見て、俺の胸は締め付けられるように痛んだが、同時に、確かな希望の光が身体を駆け巡っていた。
「謝るな、ネス。上出来だ」
俺はしゃがみ込み、泣きじゃくるネスを壊れ物を扱うように優しく、けれど拒む隙も与えないほど深く抱きしめた。
「付き合ってたことを思い出してくれた。それだけで、今の俺には十分すぎる。お前が忘れた日常なら、俺がいくらでも数え直してやるよ」
ネスの背中を、落ち着かせるように何度も優しくさする。胸の中で、ネスの身体が小さく震えていた。けれど今度は、俺を拒絶して押し返すような力は、そこにはもう無かった。
「カイザー……、僕……」
「あぁ。おかえり、俺のネス」
黄金色の夕暮れの中、俺たちは始まりの場所で、もう一度、新しく恋を始めた。
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