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悪夢と嘔吐
夜気は冷たく、忍の宿舎は死んだように静まり返っている。
だが、スズメの部屋だけは、異質な熱と狂気に侵されていた。
「はっ……、っ、がはっ……!!」
何度目かの覚醒。スズメは跳ね起きると同時に、胃の底からせり上がる強烈な吐き気に襲われた。
夢を見ていた。
あの日の、満員電車の不快な揺れ。首筋に吹きかかる、饐えた脂の匂い。そして、自分の「雌」としての部分を無遠慮に、そして執拗に蹂躙する、あの肥大した指の感触。
(……消えない。どうして、消えてくれないんだ……っ!)
スズメは、冷や汗でぐっしょりと濡れた前髪を掻きむしった。
指先が震え、自分の肌に触れるだけで、あの時の嫌悪感がフラッシュバックする。
呼吸が、できない。
酸素を求めて口を大きく開けるが、喉の奥が目に見えない鉄の枷で締め付けられているかのように、空気を通さない。
「は……っ、ひ、っ、あ……っ……、はぁっ、はぁっ!!」
浅く、激しい呼吸が、静かな部屋に空虚に響く。
過呼吸。忍として、肉体の制御は完璧に叩き込まれてきたはずだった。だが、この「心の傷」から溢れ出す生理現象だけは、どれほど印を組もうと、どれほど精神を統一しようと、制御不能なまま彼女を蝕んでいく。
(落ち着け……。僕は、大丈夫……。強い、誇り高い……っ!)
必死に自分に言い聞かせる。だが、その「誇り」という言葉が、今の彼女には何よりも鋭い刃となって自分を切り刻んだ。
ネットの闇に放流された、あの無残な姿。
瞳を閉じれば、レンズの向こう側にいる何万人もの「見えない目」が、自分を全裸にして、指差し、嘲笑しているのがハッキリと見える。
『ああ、あのかっこつけてた忍、中身はこんなに無様なんだな』
『あんな顔して、本当は感じてたんじゃないのか?』
「違う……。そんなんじゃない……っ、やめて、見ないで……!!」
スズメは、耳を塞いで蹲った。
だが、逃げ場はない。自分の記憶そのものが、最強の拷問官となって彼女を逃がさないのだ。
意識が朦朧とする中で、再び微睡みの淵に落ちる。しかし、それは休息ではなく、地獄への再入場に過ぎない。
再び、あの電車のドア脇に立っている。
背後に立つ、あの男。
「いい声だな、お姉さん……」
耳元で囁かれる卑俗な言葉。腹部に押し付けられる不快な熱。
スズメは、夢の中でまたしても「女」としての快楽の深淵に叩き落とされる。
自分の意志に反して熱を持ち、濡れていく身体。拒絶すればするほど、神経は鋭敏になり、絶頂という名の屈辱が彼女の魂を汚していく。
「あ、が……っ!! ひ、あああああああぁぁぁっ!!」
絶叫とともに、再び覚醒。
時計の針は、前回の覚醒からわずか十五分しか進んでいない。
一晩のうちに、彼女はもう何度「あの瞬間」を繰り返しただろうか。
全身は、冷や汗と、そして夢の中で流した涙でぐちゃぐちゃだった。
スズメは、震える手で自分の身体を抱きしめた。
細い肩が、寒さと恐怖で小刻みに揺れる。
誰もいない。誰も助けに来ない。
一人部屋という、自分を守るための聖域が、今は自分を閉じ込める冷たい檻になっていた。
(助けて……誰か、止めて……呼吸を、止めて……っ)
酸欠で、指先は紫に変色し、感覚が失われていく。
脳内では、かつての凛々しく余裕に満ちた自分の姿が、ガラス細工のように粉々に砕け散り、その破片が心臓を深く突き刺していた。
スズメの美しい顔は、もはや元の気高さを留めていない。
暗闇の中、一人で過呼吸にのたうち回り、涙と涎にまみれ、ただ夜明けという名の「次の地獄」を待つだけの、壊れかけた一羽の小鳥。
「……あ、は……っ、ひ、っ…………はぁ…………」
ついに、彼女は泣くことさえできなくなった。
虚ろな瞳を天井に向け、ただ不規則な喘ぎを繰り返す。
明日の任務で、ヨダカにどんな顔をして会えばいいのか。
仲間の視線が、すべて自分を蔑むレンズに見えてしまう。
スズメの精神は、終わらない夜の中で、ゆっくりと、確実に、暗い奈落の底へと沈み続けていた。
教室の喧騒が、スズメの耳元で不快な耳鳴りへと変わっていく。
「あれ、あの子じゃない?」「そっくりだよね……」
ひそひそ話が、鋭い針となって彼女の鼓膜を突き刺す。
(違う。僕じゃない。あんな……あんな無様なのは、僕じゃない……っ!)
そう念じれば念じるほど、胃の底から熱い塊がせり上がってくる。
あの男の脂ぎった体臭。首筋にまとわりつく湿った呼気。そして、逃げ場のない車内で強制的に感じさせられた「女」としての屈辱的な熱。
それらが今、毒となって彼女の腹の中で暴れ回っていた。
「……っ、う……、げほっ……!!」
スズメは突然、口を手で押さえて席を蹴った。
「えっ、結城さん!? どうしたの!?」
背後で上がる驚愕の声さえ、今は吐き気を加速させるだけのノイズでしかない。
彼女はよろめきながら、廊下を這うようにしてトイレへと駆け込んだ。
個室に飛び込み、乱暴に鍵をかける。
便器の前に膝を突いた瞬間、限界まで堰き止めていたものが、一気に決壊した。
「……っ!! げ、ほっ……!! う、うぇ……っ!!」
胃の内容物が、熱い酸とともに口から溢れ出す。
忍として鍛えた腹筋が、皮肉にも力強く収縮し、胃の中のものを容赦なく絞り出していく。
昨夜の冷え切った夕食、そして、自分の中に溜まっていた「恐怖」と「嫌悪」が、ドロドロとした汚物となって便器を汚していく。
「お、え……っ! は、はぁっ……、っ、う……ぅぅっ!!」
一回目の波が過ぎても、吐き気は収まらない。
むしろ、吐き出したことで感覚が過敏になり、自分の吐瀉物の臭いが、あの男の饐えた匂いと混ざり合って脳を焼く。
指先を喉の奥に突っ込み、無理やりすべてを書き出そうと掻き毟る。
(汚い……。僕の身体、中まで全部、あの男に汚されたみたいだ……っ!)
涙と鼻水が、顔をぐちゃぐちゃにする。
あの凜々しかったスズメの顔は、今は見る影もない。
髪を振り乱し、よだれを垂らし、何度も何度も嘔吐を繰り返す。
胃が空っぽになっても、身体は止まらない。最後には、黄色い苦い胆汁だけが、彼女の喉を焼きながら虚しく吐き出された。
「……あ、が……っ、は、はぁ……っ……ひ、ぅ…………」
便器の縁を掴む指が、がたがたと震えている。
床に滴り落ちた自分の吐瀉物を見つめながら、スズメは自分が何者なのか、もう分からなくなっていた。
外からは、休憩時間の生徒たちの楽しげな話し声が聞こえてくる。
その平和な音を聞くたびに、また胃がキリキリと痙攣した。
自分だけが、泥の中に沈んでいる。
自分だけが、あの一枚の写真、一本の動画によって、一生消えない「汚物」の刻印を押されてしまった。
スズメは、冷たいタイルの上に崩れ落ちた。
制服の袖で口元を拭うが、手の震えは止まらない。
個室の中に充満する嘔吐物の臭いと、自分の無力さ。
彼女は、吐き散らした汚物の中で蹲りながら、ただ声を殺して、子供のように震え続けるしかなかった。
「……だれか……、殺して……っ、おねがい……殺して…………」
その願いさえも、不快な胃液の味とともに、暗い個室の中に虚しく消えていった。
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