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ある夜――
ジホが仕事で外に出た隙に、
ヒョヌはベッドの中でひとり、小さく息を吐いた。
薄暗い天井をぼんやりと見つめる。
何度目か分からない「ジホの部屋」。
スマホもない。
鍵もない。
ただ、自由の代わりに与えられたのは
不安を埋めるジホの声と、
何度も体を満たす熱だけだ。
(……俺、何してんだ……)
ぼそりと零れた声に、
誰もいないのに心臓が跳ねた。
(逃げなきゃ……)
思った瞬間、
久しぶりに“本当の自分”が戻ってくる気がした。
体を起こそうとする。
けれど足が震える。
頭の奥でジホの声が響いた。
『いい子だな、ヒョヌ』
『他に行かないよな』
『俺だけ見てろ』
(……いやだ……)
唇を噛みしめた瞬間、
部屋の扉が静かに開いた。
帰ってきた紫の髪が、暗がりで微かに揺れた。
「……何してんの。」
低く落ちた声に、ヒョヌの全身が硬直する。
「……べつに……」
か細く答えた声が、空気を震わせた。
ジホがゆっくりと近づいてくる。
「立とうとしてたよな。」
ジホの指先が顎を掴む。
「……逃げる気だった?」
黒い瞳が笑っていない。
「違……う……」
震えた声を言い切る前に、
ジホは唇を塞いだ。
苦しいほどの熱。
舌が喉奥まで押し込まれて、
息を奪われる。
もがくヒョヌの手首を、ジホは片手で簡単に押さえつけた。
「ヒョヌはいい子だろ?」
唇を離したジホが、
耳元でささやく声は甘くて残酷だ。
「俺だけに可愛がられてればいいんだよ。」
息が荒くなり、
抵抗の力が抜けていく。
「逃げようなんて思うなよ?」
髪を撫でる手が優しくて、
その優しさが、
何よりも重くヒョヌを縛っていく。
(……無理だ……)
心の奥のかすかな理性は、
ジホの笑みに飲まれて消えた。
数日が過ぎた。
ヒョヌはもう、自分で部屋を出ることを考えなくなった。
ジホの言葉を待つのが当たり前になった。
食事も、着るものも、眠るタイミングさえ。
ジホが指先で触れれば、
息を殺して目を閉じるだけでいい。
抵抗は怖いだけだと知った。
逃げるよりも、
ここにいた方がまだ楽だと、
体の奥が覚えてしまった。
(……俺は……これでいい……)
ベッドの上で、ジホの手が髪を撫でる。
その手の温度が唯一の救いだった。
「ヒョヌ。」
名前を呼ばれると、
喉奥から小さな声が漏れる。
「……なに……」
ぼやけた瞳で見上げると、
ジホが優しく笑っていた。
「お前は俺のもんだよな。」
「……うん……」
躊躇いはもうどこにもなかった。
ジホの胸に顔を埋めると、
甘い匂いが鼻をくすぐる。
(……これでいい……)
(……でも……)
ジホの胸に耳を当てると、
脈打つ音に混ざって、
どこか遠くで、何かが軋む音がした気がした。
(……これが……ずっと続くわけがない……)
そう思った瞬間、
ジホの手が背中を強く抱きしめた。
「なに考えてんの?」
低く落ちる声が、
体の奥まで冷たく突き刺さる。
「……なんにも……考えてない……」
声が震えたのを、ジホは見逃さなかった。
「お前が余計なこと考えたら、俺が全部消してやる。」
耳元に熱い吐息が落ちる。
「お前は俺のもんなんだからさ。」
背骨が震えて、
ヒョヌは小さく頷くしかなかった。
でも、胸の奥で誰かがまだ小さく叫んでいる。
(……いつか……全部……)
それが何を意味するのか、
ヒョヌ自身も、まだ知らなかった。
外は雨が降っていた。
窓の外に打ちつける音を、ヒョヌはベッドの上でぼんやりと聞いている。
目の前にはジホ。
ソファに腰かけて煙草を咥え、
静かにスマホを弄っている姿を、ヒョヌは小さく盗み見た。
(……どこか、遠くに行きたい……)
ふと思った。
でも次の瞬間には、背筋が震えてかき消される。
ジホの目がこちらを見た気がしたからだ。
視線が合うと、紫髪の男は口角を上げて笑った。
「ヒョヌ、こっち来い。」
呼ばれた瞬間、
体は何の抵抗もなく立ち上がっていた。
膝立ちのままジホの足元に近づくと、
髪を撫でられる。
「外、行きたいの?」
その言葉に、心臓が止まりそうになる。
(……聞こえてた……?)
震える肩を、ジホは嬉しそうに撫でた。
「無理だよ。お前はどこにも行けない。」
ささやく声が優しすぎて、
逆に息が詰まる。
「俺以外の空気なんか、吸わなくていい。」
ジホの指が顎をすくって、
唇を塞ぐ。
いつもより深く、長く、
息を奪うキス。
「苦しい?」
唇を離した瞬間に、ジホが笑う。
「……っ……」
ヒョヌはかすかに首を横に振った。
「俺がいないと生きていけない体にしてやるからさ。」
ジホの声が低く囁く。
「怖い?」
震えながら、ヒョヌは小さく頷いた。
「いい子だ。」
震える肩を抱き寄せ、
耳元に熱を落とす。
「ずっと俺だけを見てろ。」
窓の外の雨音が、
鎖の音に聞こえた。
(……逃げられない……でも……)
ヒョヌの奥底で、
錆びついた鍵が、どこかで軋んでいる。
(……いつか……)
壊れるのは、檻か、自分か。
まだ分からないまま、
ヒョヌは静かに目を閉じた。