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自分の体の下にある違和感で、みなみは目を覚ました。
「ん……?」
寝起きのぼんやりとした頭で目を開け、続いて自分の腕が不自然な位置にあることに気づく。たちまち目が覚め、動揺しながらのろのろと体を起こしかけてはっとした。いったいどうして宍戸に抱きついているのだろうと混乱する。しかしその過程は全く記憶になく、全身から血の気がさあっと引いていく。その時みなみの耳元で、のんびりとした宍戸の声がした。
「やっと起きたか」
恐る恐る首を回してびくりとする。至近距離に宍戸の顔があった。みなみは慌てて宍戸から体を離し、しどろもどろになって彼に訊ねる。
「あ、あの、えぇと、これはいったいどういう状況で……?」
「覚えてないのか」
「全然……」
「やれやれ……」
宍戸は顔中を苦々しい笑みでいっぱいにしながら体を起こした。
「お前、俺に抱きついたまま寝てしまったんだよ。起こすのも可哀そうだから、そのままにしてたんだ。ま、そんなに長い時間じゃなかったけどね」
「えっ……」
みなみは顔を覆った。恥ずかしすぎて宍戸の顔をまともに見られない。
「岡野」
「な、なに?」
みなみははっとして、手と手の隙間から目をのぞかせた。宍戸の手に体を押し倒されたのは、それとほぼ同時だった。
「きゃっ!」
悪い冗談だと思った。みなみは自分の上に覆いかぶさる宍戸を睨みつける。
「何するのよ。やめて」
「いやだ」
宍戸は反抗的な目をして、みなみを抱き締めた。
彼の体の重みで身動きが取れず、みなみは硬直したまま天井を見上げた。
「離してよ」
しかし宍戸はみなみの言葉を無視する。
「今日の岡野、ものすごいハイペースで飲んでたな。帰りなんか、足元がぐらぐらしてた。あんな飲み方するなんて、岡野らしくない。なぁ、俺、ずっと報告待ってたんだけど、もしかしてやっと補佐にフられたのか?」
どこか嬉しそうに聞こえる「やっと」という言い方に、みなみはカチンとした。
「違う」
「じゃあ、あれか。まだ返事をもらってない、とか」
「そ、それは…」
みなみは口ごもり、目を泳がせた。
「当たりか」
「時間がほしいって言われたわ……」
「え?どうして返事をするための時間が必要なんだ?だって、岡野、告白したんだろ?付き合って下さいって。だったら、返事はイエスかノーの二択しかないはずだろ」
実際はそんなに単純な話ではなかったが、それよりも今は宍戸の反応が気になってしまう。
「どうして宍戸が怒るの?」
貞操の危機に直面しているような状況下だというのに、みなみは訊ねた。
宍戸はみなみに肩に顔を埋めて答える。
「岡野が傷ついているところなんか、いつまでも見ていたくないからだよ」
「何よ、それ」
宍戸に優しく言われて、泣きたくなった。けれど、涙があふれてこないようにと唇を噛んで我慢する。
彼はみなみの耳元で訴えるように言う。
「俺だったら、お前にそんな顔はさせない。させないように努力する。これ以上ないってくらい、とことん甘やかしてやる。最初は補佐の代わりだってなんだっていい。いつか俺だけしか目に入らないようにしてやる。だからもう補佐を追いかけるのなんかやめて、俺を選べよ」
宍戸の甘くて熱い言葉に、心が揺さぶられる。このままイエスと頷けば楽になれるのだと、もう一人の自分が優しく囁く。山中のことはもう諦めた方がいいのだろうかと思った時、目尻から涙がこぼれた。
「岡野……」
宍戸の吐息を首筋に感じて、みなみはぴくりと肩先を震わせた。
まるで壊れ物でも扱うような優しさで、彼の唇がみなみの額、瞼、頬に触れていく。
目を閉じて彼の熱に五感を委ねながら、本当にこれでいいのかと、みなみは自問自答する。
宍戸の指が唇を撫でた時、みなみの口からその名前がこぼれ落ちた。
「補佐……」
途端に宍戸の盛大なため息が聞こえる。
「はぁぁぁ……」
みなみはゆっくりと目を開けた。
眉間に深いしわを刻んだ宍戸の顔があった。
「今回の告白も、結局失敗に終わったか」
宍戸はみなみから離れて床に腰を下ろした。
その背中に声をかけようとして、みなみは言葉に詰まる。
「何も言わなくていいから。特に『ごめん』とかいう言葉はいらないからな」
宍戸は首を上向けながら言う。どことなく声が湿っぽいと思ったのは、みなみの気のせいだったのか。
「こうなるだろうって、予想はついていたんだ。ただ、多少なりとも可能性が残ってたりしないかな、なんて思ってさ。最後の手段の色仕掛けで、お前のこと堕とそうと思ったんだけど、ダメだったな。残念」
「色仕掛け……」
みなみははっとして、自分の身なりをそそくさと整え出した。
その様子を笑って横目で見ていた宍戸だったが、おもむろに立ち上がり、キッチンスペースへと向かった。みなみの前に戻ってきた時には、水を入れたコップを手にしていた。
「ほら、水。かなり飲んでたから」
「あ、ありがとう……」
おずおずとコップを受け取り、みなみはごくごくと水を飲んだ。ようやく人心地がついたこの時になって、改めてじわじわと宍戸の気持ちが胸に染み入ってくる。気づいた時には訊ねていた。
「宍戸はどうして私のことを好きになってくれたの?」
「フっておきながら、そんなこと訊く?」
「ご、ごめん……」
「謝るのはナシだって言っただろ」
宍戸は苦笑いを浮かべる。
「そうだな……。どうしてって聞かれると、はっきりと答えられないけど、きっかけになったその瞬間は覚えているよ。ちなみに岡野はどうなんだよ」
「私?私は……」
「やっぱ、いい。お前の好きなやつのことなんか聞きたくないわ。じゃ、帰るから」
「うん……」
みなみは玄関まで宍戸の後を着いて行く。彼に対する様々な思いを込めながら、「ごめんなさい」という言葉の代わりにこの言葉を口にする。
「宍戸、どうもありがとう」
彼は玄関のドアノブを回しながら、みなみの言葉に答えることなく冗談めかして言う。
「さて、と。どこかでヤケ酒でも飲んでくかな」
宍戸の気持ちに応えられなかったことは、どうしようもないことだった。けれど、たくさんの想いを向けてくれた彼に対して、申し訳なくて切なくて苦しくて、たまらない気持ちになる。
「そんな顔するなって」
宍戸は困った顔をして笑い、みなみの額を指先で軽く弾いた。
「来週からは、今まで通りだ。たぶん、だけどな。――じゃ、おやすみ」
「おやすみなさい……」
ドアが静かに閉まり、宍戸の靴音が遠ざかっていく。
みなみは涙をこらえながら、その足音が聞こえなくなるまでその場に立っていた。