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第5話:『浸食』
外部の喧騒を遮断したノーチラス号の船室には、重油の匂いと、微かな蒸気の排気音だけが満ちていた。
アランは自室のベッドに倒れ込むように腰を下ろす。
防護マスクを外したその顔は、死人のように蒼白で、それでいて頬だけが異様な熱で赤らんでいる。
「……アラン、大丈夫? すぐに熱を測るわね」
リーザが心配そうに覗き込み、アランの額に手を当てた。
だが、その指先が触れた瞬間、彼女は小さく悲鳴を上げて手を引っ込める。
アランの肌は、触れた指を焼くほどに熱を帯びていたのだ。
「……ごめん、リーザ。怪物が、俺の中で暴れてる……っ」
アランの声は熱に浮かされ、掠れていた。
潤んだ瞳は焦点が定まらず、救いを求めるようにリーザをぼんやりと見つめる。
彼は震える左手で、自身の襟元を乱暴に寛げた。
激しい発熱が彼の華奢な体を内側から焼き、肺から酸素を奪っていた。
リーザは震える指先で、アランのシャツのボタンを一つずつ外していく。
厚手の布地が肩から滑り落ちるのと同時に、湿った熱気が溢れ出す。
あらわになったのは、繊細な硝子細工を思わせる、白く滑らかな少年の肢体だ。
荒い呼吸に合わせて、鋭く浮き出た鎖骨が波打つように上下する。
その美しいラインに沿って、真珠のような汗の粒が滑り、鎖骨の深い窪みへと吸い込まれていった。
苦しげに首を反らすたびに、汗ばんだ漆黒の長い髪が数筋、吸い付くように白いうなじへ張り付く。
それは、見る者の理性を狂わせるほどに退廃的で、保護欲と破壊衝動を同時に突き動かす光景だった。
「……ぁ、う、ぐ……っ、はぁ、はぁ……」
アランが喉の奥で、苦痛とも快楽ともつかない、甘い喘ぎを漏らす。
薬液『マザーズ・クライ』が血管に注ぎ込まれる瞬間、アランの背中が弓なりにしなり、やがて憑き物が落ちたように深い眠りへと沈んでいった。
*
数時間後。
目覚めたアランは、まだ体に微かな熱を感じながらも、リーザとギリアムと共に食堂のテーブルを囲んでいた。
皿の上には、ギリアムが「特別だ」と言って仕入れてきた温かいシチューとパンが並んでいる。
「……ったく。地獄の淵から戻った直後のメシにしちゃあ、上等すぎるだろ。冷めねえうちに胃に流し込んどけ」
ギリアムの不器用な言葉に、リーザが小さく微笑む。
だが、アランがスプーンを口に運ぼうとした、その時だった。
「…………っ」
アランの動きが、凍りついたように止まる。
右腕の「怪物」が、皮膚の裏側でこれまでにないほど激しく、まるで歓喜に震えるように疼いたのだ。
ドクン、と心臓が跳ねる。
それは恐怖ではなく、もっと根源的な、血が呼び合うような不気味な高揚。
「……少し、外の空気を吸ってくる」
心配する二人の声を背に、アランは逃げるように甲板へと向かった。
重いハッチを開けると、テムズ川の冷たい霧が肌を刺す。
霧の向こう側、甲板の手すりに寄りかかるようにして「それ」は立っていた。
仕立ての良い白銀のコート。
自分と酷似していながら、圧倒的な強者の余裕を纏った顔立ち。
アランの兄であり、完全適合者――ウィリアム。
「久しぶりだね、アラン。……そんなに怯えなくていい。弟の『進み具合』を見に来ただけだよ」
ウィリアムの視線が、アランの乱れた襟元から覗く鎖骨と、そこまで這い上がりつつある黒金色の繊維をねっとりと撫でる。
アランは声も出せず、ただ自分の「怪物」を愛おしげに見つめる実の兄の視線に、蛇に睨まれた蛙のように立ち尽くすしかなかった。
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