テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
第65話 〚戻る日常、戻らない視線〛(学校編)
夏休み前の学校は、
どこか浮ついている。
教室に入ると、
「花火行った?」「屋台何食べた?」
そんな声が、あちこちから聞こえた。
――いつも通りの朝。
――いつも通りの教室。
澪は席に着き、
カバンから本を取り出す。
……なのに。
(見られてる)
理由は分からない。
でも、背中の奥が、ひやりとした。
前を向いても、
ページに目を落としても、
視線の気配だけが消えない。
「おはよう」
声をかけられて、
澪は顔を上げた。
「……おはよう、海翔」
海翔は、少しだけ安心したように笑う。
花火大会の夜より、
ほんの少し距離を保って。
「昨日……大丈夫だった?」
「うん」
澪は、ちゃんと頷いた。
「ありがとう」
そのやりとりを、
教室の何人かが、ちらりと見ていた。
ひそひそ、という音。
「やっぱ付き合ってんじゃない?」
「いや、まだじゃない?」
「でも距離近くない?」
澪は、聞こえないふりをした。
――それには、慣れている。
けれど。
その噂よりも、
もっと重たい“何か”があった。
ふと、視線を感じて、
澪は顔を上げる。
教室の後ろ。
恒一が、こちらを見ていた。
マスクの奥。
感情の見えない目。
目が合った瞬間、
恒一は、何事もなかったように視線を逸らす。
(……気のせい?)
澪は、そう思おうとした。
でも、胸の奥がざわつく。
昼休み。
えま、しおり、みさとと机を囲んでいると、
えまが小さく言った。
「ねえ……澪」
「なに?」
「さっきからさ」
えまは声を落とす。
「……見られてる気、しない?」
しおりも、頷いた。
「私も。後ろの方から」
みさとは、冗談っぽく笑おうとして、
途中でやめた。
「笑えないやつだよね、それ」
澪は、ゆっくり息を吸った。
――自分だけじゃない。
「……うん」
澪は、正直に言った。
「私も、感じてる」
その瞬間。
廊下から、
誰かの笑い声が聞こえた。
恒一の声だった。
明るくて、
周りに溶け込むような、
“普通の優等生”の声。
(学校は、何も変わってない)
でも。
(変わったものも、確かにある)
放課後。
海翔が、澪の横を歩く。
「今日さ」
海翔は、前を見たまま言う。
「無理しないで」
澪は、少し驚いて彼を見る。
「俺、全部分かってるわけじゃないけど」
海翔は、少しだけ声を低くした。
「変な空気、ある」
澪は、ゆっくり頷いた。
「……でも」
海翔は、澪を見て言う。
「一人じゃないから」
その言葉に、
澪の胸が、少しだけ軽くなる。
教室を出る前、
澪はもう一度、後ろを振り返った。
恒一は、
誰かと笑って話していた。
――完璧な、日常の中の一部。
でも。
(視線だけが、戻らない)
澪は、
それを見なかったことにはしなかった。
花火が終わり、
学校が始まり、
日常は戻った。
けれど、
“何か”は、
確実に、動いたままだった。