<この物語はフィクションであり、実在の人物及び団体とは一切関係ありません>
「始まりの浮気」
“触らないで”
そう思えば思うほど、あなたの手は私の肌を滑る。
“もう終わりにしたいの”
口にしようとする度に、熱に 攫(さら)われて、流されてしまう。
私の肌を滑る指、声をふさぐ唇や吐息でさえ、私には汚れて見えるのに。
「好きだよ、愛してる」
またひとつ、彼の唇から嘘が零れた。
明かりを絞った寝室で、ベッドが軋む音と湿った吐息が響いている。
首を捻って彼氏から――― 日比野(ひびの)から唇を離しても、何度でも唇を塞がれて、言葉が飲み込まれてしまう。
ぼやけていく思考の中、うっすら目を開くと、彼の肩が小さくうっ血しているのが見えた。
もう何度、私がつけた覚えのないキスマークを見ただろう。
「……も、う、終わりにしない?」
重なる唇の合間に言えば、湿り気を帯びた声が返される。
「……まだ、まだだよ。もっと―――」
押し寄せた波に飲まれ、私は続く言葉を失ってしまう。
……違う。そうじゃない。
そうじゃないの。
本当は私の気持ち、わかっているんじゃないの?
「愛してるよ、千尋(ちひろ)」
……本当にひどい人だ。
素知らぬふりをして愛を囁けるなんて、そんな嘘は聞きたくないのに。
彼の指も。
唇も。
声も、汚れて見えるのに。
その言葉は私から思考を奪い、日比野のもとに留まらせてしまう。
「愛してるよ」
苦しい。
苦しいと、それらしく涙でも流せばわかってくれるのだろうか。
それなのに私がこぼすのは、涙じゃなくて彼を喜ばせる雫だ。
「―――もう、いい?」
私に微笑みかける日比野を見上げながら、頭の隅で「どうして聞くの」と思った。
唇を塞いでなにも言わせないのは、そっちでしょう。
押し寄せる感覚が途絶え、湿った荒い息が耳元で繰り返される。
汗ばんだ肌。
速い鼓動。
彼が体を起こした時、肩のキスマークが再び見えた。
そこにそっと唇を寄せたのは、あなたに別の世界があることを、私が知っていると伝えるため。
これで終わりにしたいと思うのに―――。
「千尋、もう一度」
私の髪を 梳(す)く日比野は、私の気持ちにきっと気づいているのに、いつも素知らぬふりをする。
……どうしてなの。
いずれ離れるつもりなら、早く出て行ってほしいのに。
「愛してる」
その言葉を合図にベッドのスプリングが音を立て、やるせなさと諦めのような心地が私の胸を埋め尽くした。
やっぱり気づいていないんだろう。
私の耳の後ろに、あなたと同じ跡があることを。
こんなに近くにいても、あなたは私のこと―――わかっていないわ。
汗を流そうと、彼が眠ってから重い体を起こし、ベッドを抜けた。
こちらに背を向けて眠るのは、 日比野俊樹(ひびのとしき)―――付き合って4年になる、8歳年上の彼氏だ。
彼は私が入社した当時トレーナーを務めていた人で、熱心に仕事を教えてくれる彼に信頼を置いていた。
日比野と付き合い始めたのは、私が入社して半年ほど経った時のことだった。
告白された時は驚き、私でいいのか迷いつつも、嬉しくて彼の手を取った。
だけど―――。
彼の背中を見るともなしに見つめ、小さなため息をつくと、床に散らばった下着を拾ってバスルームへ向かった。
クーラーの届かない脱衣所はひどく蒸し暑い。
まとわりつく汗に顔をしかめながら、私は下着や服を洗濯機へ放り込んだ。
日比野に別れを切り出そうとしたのは、これで何度目だろう。
その度に熱に浮かされて、今足元を流れる水のように、ただ流されてしまう。
日比野は女子校育ちの私が初めて付き合った相手だった。
真面目で勉強ばかりだった私を連れ出し、仕事以外にもいろいろなことを教えてくれた人で……。
同い年の子と遊ぶのとは違う世界を見せてくれ、バーやラウンジに初めて連れて行ってもらったのも、日比野だった。
実家暮らしだった私が一人暮らしを始めたのも、彼の影響だった。
私との時間をもっと持ちたいと言われ、嬉しくて実家を出る決心をした私に、彼は当然のように部屋探しに付き合ってくれた。
家具や家電も彼と一緒に選び、引っ越したその日に彼を招き、合鍵を渡すのは、私にとって自然な流れだった。
けれど彼が浮気していることに気づいた今は、彼が私の部屋にいることが苦しい。
過去を思い返してぼんやりしていた私は、小さくかぶりを振ってシャワーを止めた。
ぽたぽたと水滴が落ちる髪を耳かけ、そっと耳の後ろに触れる。
そこへ鈍い痛みを与えられたのは、昨晩遅くのことだった。
「本当、なんであんなこと……」
あの時、私はどうかしていたんだろう。
キスマークをつけた相手は、日比野ではなくバーで出会ったゆきずりの人だった。
その人のことは、まれに見る整った顔立ちだということ以外、ほとんど覚えていない。
昨晩、女子校時代からの親友である 奈々子(ななこ)とバーで飲みながら、日比野のことを聞いてもらっていた。
彼に浮気されていること。
それでも情があることや、今からひとりになる不安で別れる勇気がないことを話していると、菜々子は途中で彼氏に呼び出されてしまった。
なんでも菜々子の彼氏が家のカギを失くしたらしく、スペアを持っている菜々子に来てほしいということだった。
申し訳なさそうに「また話聞くから」と言って菜々子が行ってしまった後、仲睦まじい様子に「よかった」と思う反面、むなしくなった。
菜々子から彼氏の話は聞いている。
気も合うみたいだし、結婚の話も出ているようで、「よかった」と思う反面、自分と比べて焦りややりきれなさも感じた。
その後、バーカウンターでイスひとつ間をあけて座っていた男の人に声をかけられて……。
どういういきさつかは飲みすぎて覚えていないけれど、日比野への屈折した思いが、私を彼と同じ浮気の道へと誘った。
彼とホテルに入って、キスをして―――。
昨晩のことを思い返すと、まるで第三者の話を聞いているみたいに、自分がしたこととは思えない。
それでも日比野以外の人に触れられたのは初めてで、その感触は頭ではなく体が覚えていた。
「でも、もう会うことはないし……」
無意識の呟きは、日比野へなのか、自分への言い訳なのかわからない。
深酒(ふかざけ)していたこともあって、私はことを終えた後、すぐ眠ってしまった。
朝起きた時に相手はおらず、素性はもちろん、名前も連絡先も知らない。
ああいったホテルからひとりで出るのは気まずかったけど、ふたりで出てもなにを話していいかわからなかっただろうし、きっと相手も気まずかったんだろうと思い直した。
もう二度と会うことのない相手との、一夜限りの情事だと心の中でくり返し、耳に当てていた手を外すと、ざっと体を洗った。
バスルームを出て冷たいミネラルウォーターを口に含めば、ようやくほっとしたのか強い眠気が襲ってきた。
寝不足は連日の熱帯夜で、体がまいっているからだけじゃない。
心の通わない情事ばかり重ねているからだと、自嘲の笑みがこぼれた。
いつから私は―――「私たち」は、こんなふうになってしまったんだろう。
日比野とは楽しかったことも、嬉しかったこともあった。
仕事でミスをした時や、上司に叱られた時、彼がかけてくれた優しい言葉も、抱きしめてくれた温もりも、はっきり覚えている。
だからこそ日比野が浮気をしているとわかった時、最初は信じられなかったし、信じたくなった。
“どうして?”
“どうして私以外の人と―――”
まるでドラマの中のようなセリフが頭に浮かび、浮気されているという状況が現実だと思えなかった。
それでも一度疑えば気づくことも、わかってしまうこともあって、その度に傷ついて胸が張り裂けそうになる。
温厚で優しい日比野は会社でもそれなりにモテていたし、だれかに言い寄られたのかもしれない。
はっきり問いただしたい反面、「この人と離れたら、私はどうなるんだろう」と怖くなった。
就職し、彼と付き合ってからの私は、仕事でも私生活で、私の日常には彼がいた。
今の私を形成しているのは日比野で、それ以前の私はどうだったのか、すでにおぼろげだった。
考えた末、私はひとつの答えを出した。
気づかないふりをしていれば、いつかもう一度私だけを見てくれるかもしれない。
彼を信じて待つと決め、一か月、二か月が過ぎた。
だけど何度も目にするキスマークは薄れる度に新しくなり、見る度にやるせなさが襲ってくる。
それでも私は彼の心が戻るのを待った。
だけど待ったというより、ただ日比野と向き合うことを避けただけともわかっていた。
月日は流れ、さらさらと積もり、一年が過ぎた。
その間に彼への好意は薄れて消え、残ったのは私を縛る、鎖のような情だけだった。
コメント
4件
面白いです!
描写が素晴らしいです!
すごい