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「ノンフィクション」

ミネラルウォーターで喉を潤し、ため息混じりにテーブルに置いていたスマホを手に取った。

開いた小説アプリには、マイページに一件の通知があった。


千花さんこんばんは。続きがめちゃめちゃ気になります。

更新頑張ってくださいね!


届いていたコメントを目に、ふっと頬が緩む。

元々作家を夢見ていた私は、小説サイト内では『 広田千花(ひろだちか)』を名乗り、趣味で携帯小説を投稿している。

私自身のことを「小説」として投稿し始めたのはいつからだろう。

日比野(ひびの)の浮気を知った後、だれにも言えない自分の胸の内を吐き出したくて、心中や葛藤を 綴(つづ)り始めた。

ここでなら私の全てはフィクションにしか映らない。

その中でだれかが共感してくれることが、心の支えにもなっていた。

今日の昼休みに更新したのは、ゆきずりの男と寝たというところまでだ。

コメントに返信しようとした時、新しい通知がつく。

気持ちが緩んでいた私は、小さな高揚感のまま新しいコメントを見て―――心臓が引きつった。


ゆきずりの男と寝たなんて、いくら弱ってたといっても、人としてどうなの?

っていうか、ちひろがウジウジしすぎ。

すっぱり彼氏と別れたらいいのに


咄嗟にそのコメントから目を逸らし、唇に力を入れた。

更新したからといって、必ずコメントをもらうわけじゃない。

たまにもらうものだからこそ、感想はダイレクトに胸にくる。

それに“ちひろ”というのは小説の主人公―――つまり“私”だ。

「わかってる……」

言われなくてもわかっている。

浮気する彼氏との未来なんてないことだって、続けていける自信がないことだってわかっている。

かといって別れる勇気もなくて、ゆきずりの男と寝てもと虚しいことも、浮気しても日比野みたいに別の境地に辿り着けなかったことも、わかっている。

わかってる。

わかっているけど―――。

私は唇に力をこめたまま、目をつぶった。

日比野のことは、もう好きじゃない。

だけど日比野とは就職してから今まで、4年も付き合ってきた。

今さらひとりになるのは怖い。

もし結婚しても、浮気癖が治らない可能性のほうが高いのに、「もしかして自分だけを見てくれるかもしれない」と、未来を期待する自分も捨てきれずにいた。

愛情も恋心も、もう持ち合わせていない相手なのに。

それでも私の心の大部分を占めているのは、日比野だった。

もらったコメントどちらにも返信できず、私は小説の編集画面を開いた。

ページを追加して、ゆきずりの男と寝た後のことを 綴っていく。

ちひろが仕事を終えて帰宅した後、合鍵を使って彼氏が来ていたこと。

気乗りしないまま体を許した後、彼氏に浮気の跡を見つけてやるせなくなったこと。

彼氏が寝てから、昨晩ほかの男と体を重ねたことを思い出して、虚しさだけが残ったこと。

あるがままを文字にして、更新ボタンを押した時には窓の外が白みかけていた。

「またなにか言われるかな……」

さっき批判されたように、また“ちひろ”が批判されるだろうか。

数時間前の眠気はいつの間にか消え、 虚無感(きょむかん)と気だるさが私を包んでいる。

「早く前に進めたらいいね。ちひろ……」

呟きながら、私は寝室のドアの隙間から見える、日比野の背中を見つめた。


どれだけ気分が落ちていようとも、日が昇れば一日が始まる。

私は商社の営業事務として貿易部に勤め、今年で4年目だ。

営業から頼まれた商材の資料を揃え、エクセルでデータを整理し続けるものの、寝不足で思うようにはかどらない。

必死で数字を追っていると、となりの化成品部から日比野の声が聞こえた。

聞こうとしていないのに、どこにいても彼の声を拾うようになったのは、彼と付き合い出してからずっとだ。

今朝ソファですこし眠り、アラームで起きた時には日比野の姿はなかった。

私の部屋に着替えはないから、朝早めに起きて一度家に戻ったんだろう。

(さすがに今日はうちにこないよね)

連日寝不足じゃ仕事に支障をきたすし、心も体も休まらない。

今日こそは早めに寝よう、と密かに決め、パソコン画面の数字に集中した。

ひとりっ子で内気だった私は、小さな頃から物語の世界に親しみ、やがて作家を夢見るようになった。

好きが高じていつしか私も書けるんじゃないかと思い始めた高1の冬、初めて出版社の公募に挑戦した。

初めてのチャレンジだったくせに、まわりに自分以上に本を読んでいる人がいなかった私は、どこかで過信していた。

結果は一次通過すらならず、ショックで現実が信じられなくなり、初めて悔さで涙が出た。

そこからは火がついたように一心不乱に書いた。

手あたり次第にいろんな公募に応募するようにもなった。

けれどどれも結果はついてこず、「次こそは」と思っても、結果発表を見る度に、胸をかきむしられるような悔しさが襲う。

苦しくて、やりきれなくて、でも自分はまだやれるというプライドも残っていて。

毎日小説を書き続け、高2も半ばになると、本格的に自分の進路を決めなければいけなくなった。

私は親に作家になりたいと口にしていなかった。

本気になればなるほど、現実との差を感じて、夢を口にできなくなっていた。

親には大学に進学するよう伝え、やがて高3になった。

受験勉強の合間に新作を考えている時間はなく、私はこれまで書いたもので一番よく書けたと思うものをリライトして公募に出すと決めた。

学校と勉強以外の時間はすべて編集作業に当て、最後の挑戦のつもりで挑んだ。

でも……結果は惨敗だった。

一次通過者に名前がないのを見ても涙が出なかったのは、この時が初めてだった。

私はようやく悟った。

私にとって作家は「夢」で、自分には才能がなかったんだと。

そうして大学へ進学し、就職したのは物語とは無縁の仕事だった。

けれど書くことは私の中で生き続けていたらしく、日比野とのことで悩むようになると、小説として自分のことを綴るようになった。

今では休み時間や帰宅後に執筆し、出勤の電車の中で、サイトのマイページを覗くのが日課になっている。

なりたい職業ではなかったけれど、今の仕事にやりがいも感じているし、今週みたいな繁忙期は、余計なことを考えずに済むのもありがたかった。

だけど日比野の声が聞こえていれば、どうしても意識が引きずられる。

それに今日に限っては、耳の後ろ――一夜を共にした相手につけられたキスマークが鈍く 疼(うず)いていた。

疼くのは、彼氏以外の人と体を重ねた罪悪感からなのか、それすら自分でもわからない。

今日の業務を終え、パソコンの電源をオフにしたのは午後6時過ぎだった。

「お疲れさまです」とまわりに声をかけ、オフィスビルを出た瞬間、むっとした暑さに顔をしかめる。

8月初旬、もう何ヵ月と夕方になっても気温が下がらない。

けれど日は長く、空はまだ明るさを残していて、気分はそこまで悪くなかった。

……このまま本屋にでも寄ろうかな。

そんな気持ちもよぎったけれど、早く帰って体を休めたほうがいいと思い直し、まっすぐ駅へ歩き出した。

その時、スマホが着信を知らせた。

仕事の連絡かと見れば、相手は日比野で―――表示された名前を見つめながら、出ようかどうか躊躇う。

だけど無視できずにスマホを耳に当てると、「 千尋(ちひろ)?」と聞き慣れた声が聞こえた。

「どうしたの?まだ仕事は終わってないでしょう?」

「昨日泊まった時に、そっちにカフス忘れたみたいなんだ。あと2時間くらいで切り上げるから、帰りに千尋のところへ寄らせて」

「えっ」

嬉しさより苦しさが先にきて、思わず身が硬くなった。

「今日はダメ」

「なんで?」

日比野は当然のように聞いてきたが、言い訳は思いついていない。

「えっと……。今から友達と飲む約束をしてるの。遅くなるし、カフスは見つけたら会社で渡すから」

苦し紛れに言った時、電話の向こうで日比野を呼ぶ声がした。

「ごめん、呼ばれた。後でまた連絡する」

通話が切れ、彼が言った「また連絡する」が、重たく胸に沈む。

(もう、家に帰れなくなったじゃない……)

日比野は合鍵を持っているから、私の意思がどうであろうと部屋に入ってこれてしまう。

会いたくなくて「いない」と嘘をついたけど、下手に帰って日比野と鉢合わせたら、彼に抱かれる可能性のほうが高い。

(これからどうしよう)

本当に友達――― 菜々子(ななこ)を呼び出して、この間の話の続きを聞いてもらおうか。

それとも飲めるお店で食事して時間をつぶすか。

それとも―――。

考えているうちに、オフィスを出た時よぎった「本屋にでも寄ろう」という考えが巡ってきた。

(そうだ)

どうせ家にいられないのなら、気分転換になるような場所に行こう。

それなら近くの本屋に行くのではなくて、すこし足を伸ばしてみようかな。

一度行ってみたいと思っていた神田にある古書店街へ出向くと、独特の雰囲気に気分があがった。

(よかった。来て正解だ)

古書店をはしごしているうちにお腹もすいてきて、飲食店を探して通りを一本中へと入る。

そのうち大きなビルの前を通りがかり、ネームプレートを見て足が止まった。

「集学社(しゅうがくしゃ)……。ここにあったんだ」

だれもが知る大手出版社、「集学社」の自社ビルだった。

なんとなくドキドキしながらエントランスのほうを見たのは、どういった人が出入りしているんだろう、という興味があったからだ。

自動ドアを見つめていると、すこしして中から人が出てきた。

その人がふいにこちらを見て、視線が重なる。

(あ……)

瞬間、驚きで息が止まった。

相手の名前も素性も知らない。

でもその端正な顔だけは、はっきり記憶していた。

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