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#ハッピーエンド
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エリーの自宅は、相変わらず「生活魔法が敗北したあと」のような有様だった。
ソファには読みかけの魔導書と丸めた服が積み上がり、床には用途不明の魔道具と空になったカップが転がっている。キッチンのシンクは皿と鍋で山になり、縁に残った水滴は乾いて筋になっていた。近づくと、鼻の奥に引っかかる匂いがする。
そのシンクの前で——。
「……ふぅ。やれやれ、ですが、多少はマシになりましたかね」
ファンシーなくまさんエプロンを身に着けた中年魔法使いが、真剣な顔で皿を洗っていた。胸元には、にっこり笑うクマの刺繍。フリルまでついている。泡まみれの指がガラスの縁をなぞり、きゅっ、と小さく音がした。本人はいたって真面目で、背筋だけは妙に伸びている。
エドガーは、泡のついた手をエプロンで拭いながら、ちらりと窓の外に目を向ける。桟橋の灯りが揺れている。
「しかし……遅いですねぇ」
ため息をひとつ落とした、その時——。
ガチャリ、とドアの鍵が回る音がした。
「今戻ったわ。始めるわよ」
扉が開き、エリーが入ってくる。青い髪が少し乱れ、頬に薄く疲れが残っている。視線が室内を一周し——次の瞬間、ぴたりと止まった。
くまさんエプロンのエドガーが、泡をすすいだ皿を律儀に水切りかごへ並べている。水滴が、ぽと、ぽと、と落ちる。
「……」
エリーの瞬きが一度遅れた。頬がじわ、と赤くなる。
「ちょっ、ちょ、ちょっと!!! それ、私のエプロン!! なんで!!」
叫びが天井に跳ね返り、部屋の散らかった小物が微かに震えた。
エドガーは、エプロンの裾をつまみ、まるで高級品を鑑定するかのように真面目な顔で見つめた。
「いえ、臭いも酷かったので、せめてシンクだけでもと思いまして。……しかし、このクマの刺繍、なかなかの仕事ですね。糸の縫い取りが非常に繊細で——」
「やめてぇーーー!!」
エリーは本気で顔を赤くしながら、エプロンめがけて飛びかかった。床のカップを蹴りそうになり、つま先がぎりぎりで止まる。
「言わないでね!! 絶対に!! 今のなかったことにして!!」
「なぜですか? 生地も良いですし、私も欲しいくらいですけれど」
「欲しがらないで!!」
バタバタとした攻防の末、エリーはどうにかエプロンをもぎ取った。くるくると丸めて背中に隠し、扉の方へとすばやく放り投げる。
——ばさっ。
ファンシーなくまさんは、無残にも部屋の隅に叩きつけられた。
*
数分後。
エリーはソファに腰を下ろし、こほん、とわざとらしく咳払いをしてみせる。指先で髪を耳にかけ、目線だけをまっすぐに戻した。
「……じゃ、気を取り直して」
その声に、エドガーも姿勢を正した。さっきまでシンクで皿を洗っていた男とは思えないほど、表情が引き締まる。
「魔導書の構成を見直せ、ってところですかね?」
淡々とした言葉だが、その目は期待と高揚で静かに光っている。エリーは指を一本立てると、パチンと軽快な音を立てて鳴らした。
「さすが。話が早いわね」
エドガーは、少しだけ肩を落としてため息をついた。
「ですが、原書がここには無い以上、やれることも限られます。
さすがに今から塔を降りて取りに戻るのは……現実的ではないでしょう」
言い終えたあと、視線が一度、床の散乱へ落ちて戻る。エリーはそこでふっと口角を上げた。
「私を誰だと思っているの?」
胸をそらし、いたずらっぽく、誇らしげに。エドガーの瞳が大きく見開かれた。
「……まさか!?」
エリーは立ち上がり、部屋の隅へ歩いていく。乱雑に積まれた本や箱の奥——そこに、重そうな鉄の金庫がひっそりと置かれていた。
カチリ、カチリ、と錠前が外れる音が続く。最後のロックが外れ、蓋が静かに開いた。
中には、黒ずんだ革表紙の分厚い本が整然と並んでいた。近づくほど、紙と革の古い匂いが濃くなる。一本一本が、重い気配を放っている。
エドガーは、その光景を目にした瞬間、喉の奥がひくりと鳴った。
(……原書、だ)
思わず唾を飲み込む。胸の奥が熱くなり、指先が勝手に震えた。
「原書を……個人が所有している、だと……?」
声が少し裏返り、すぐに抑え直した。
魔術師たちが半生をかけて探し求める「始まりの本」。王宮の最奥や、神殿の禁書庫に封じられているはずのそれが——無造作ではないにせよ、ひとりのエルフの部屋の金庫に収まっている。
「ふふん」
エリーは、ひときわ厚みのある一冊を抜き出し、表紙をなぞる。指先が革の凹凸を確かめるように止まり——その面表紙を上に向け、両手で大事そうにエドガーへ差し出した。
「どうぞ。特別よ」
エドガーは、恐る恐るその本を受け取る。革の感触、重み、紙の古びた匂い——どれも、彼の知る写本と違う。掌に乗せた瞬間だけで、背筋が勝手に伸びた。
「し、しかも……こっ、これは……!」
息が荒くなる。胸の鼓動が早まり、耳の奥まで響く。
「失われた魔導書……! 文献でしか存在が確認されていないはずの……!」
エリーは真剣な目で彼を見つめ、そのままニヤリと口元だけで笑った。
「そうよ。原書のタイトルは——」
少しだけ間を置き、もったいぶるように言葉を落とす。
「『楽しいお裁縫・全編』」
「…………ふはぁあ!」
思わず、歓喜の声が漏れる。
しかし次の瞬間には、彼はもう腰から虫眼鏡を抜き取っていた。癖になった所作は、思考よりも先に動く。
「しかし……この魔法を一体……針と糸と布で、どのような魔術構造を——いや、そんなことを言っている場合ではありませんね!」
虫眼鏡を構え、原書の文字を追う。古いインクのかすれ、筆圧のムラ、そのひとつひとつに目が吸い寄せられていく。
「さっそく取り掛かりましょう! 構造を分解するところですかね、いや構文の読解か!」
口が追いつかない。ページをめくる指先が忙しい。
エリーは、そんなエドガーの横顔を少し眺め、軽くウィンクしてみせた。
「ふふっ。素直な子は、嫌いじゃないわよ」
*
そのころ——。
三十二階層、水上都市の一角にあるサハギンの料理屋は、今夜も大盛況だった。
水音と笑い声が混じり合う店内。串焼きの匂いとスパイスの香りが渦を巻き、魚の脂が焼けるじゅうじゅうという音が、背中側から胃を叩いてくる。
そんな喧噪の真ん中、ミラは一人テーブルに座っていた。
目の前の皿には——堂々たる一品が鎮座している。
こんがりと焼かれた皮は、ところどころ気持ちいい焦げ目がつき、ニンニクとハーブオイルの照りでつやつやと光っていた。
腹はぱっくりと割られ、その中には、きゅっと固めに炊かれたピラフがぎゅうぎゅうに詰まっている。
炒めた玉ねぎの甘さと、バターの香り、刻んだ香草の緑——ひとさじすくえば、湯気と一緒に胃袋を直撃する香りが立ち上がった。
——完璧に「美味そうな料理」の条件は満たしている。
問題は、その形だった。
皿の上のそれは、どう見ても。
「……ゴブリンの、丸焼き、なんだよねぇ……」
顔が、ある。しかも、こっちを向いている。歯を見せて笑っているようにすら見える。皿の縁の灯りが、目の窪みの影を強くしていた。
ミラは、じっとその顔を見つめた。
「こ……こんにちは」
口が勝手に動いて、声が漏れた。
喉がひくひくと震える。胃が冷え、手元のナイフが指に張りつく。視界の端で、昼間のサハギンの店員が皿を運ぶ姿がよぎった。
(……無理じゃない? やっぱり、無理じゃない?)
そのとき、脳内にあの時の声が蘇る。
——「いや、まず初心者は耳だ。カリカリしてて香ばしい」
オットーの、やけに得意げな講釈だ。
(み……耳よ……まずは耳……!)
ミラは深呼吸をひとつ。胸が上下し、フォークの先が少し震える。震える指でナイフを取り、ゴブリンの耳へ刃を添える。
——ざくり。
意外と、あっさり切れた。
皿の縁にコロンと転がった耳は、揚げ焼きにされたように表面がカリカリとしている。そこにニンニクとハーブの油がまとわりつき、照りと香りがさらに強くなる。
ミラはごくりと唾を飲み込む。
「……行くわよ、ミラ」
自分に言い聞かせるように呟き、耳をそっとつまんで口元へ運ぶ。
意を決して——ぱくり。
瞬間、鼻腔を抜けたのは、強すぎない香草の香りだった。バジルとタイム、それにレモンピールの爽やかさが、油の重さをすっとほどく。
一度噛めば、表面は「カリッ」と小気味よく崩れ、その直後、内側の肉が「ぷに」と弾力を主張してくる。噛みしめるたびに、じゅわりと熱い肉汁が滲み、ニンニクとハーブのオイルを巻き込んで舌の上を押し返した。
喉の奥に落ちる直前、レモンの果汁がふっと立ち上がり、後味を切る。
「…………っっ!!」
ミラの肩が跳ね、背筋が反射的に伸びた。握ったフォークに力が入る。ゴブリンの「顔」がまたこちらを向いた気がしたが、視線は逸れなかった。
「こっ、これは……!」
口角が勝手に上がり、よだれが溜まる。
「行けるわ!!」
思わず椅子から半分立ち上がり、フォークを握り直す。
耳に続いて頬肉、腕、腹のピラフ——次々とナイフを入れ、フォークですくい、口へと運ぶ。香草とニンニク、肉汁とレモン。見た目の抵抗と、味の圧が、頭の中の引っかかりをひとつずつ削っていく。
(……そっか。食べるって、こういうことなんだ)
敵であり、素材であり、命であるものを、丸ごと受け止める。喉が動くたび、その事実が腹に落ちた。
気づけば皿の上のゴブリンは、ほとんど骨だけになっていた。
ミラはフォークを置き、息をひとつ吐く。
「……ふぅ。オットーの言うとおり、耳からで正解だったかも」
ぽつりと呟き、ちょっとだけ誇らしげに胸を張る。
「あっおかわりお願いします。」
こうして——。
ダリウスが暗闇の中で「深き森」のさらに奥を目指し、オットーが呪い付きの《阿修羅》と格闘し、エドガーが失われた原書とにらめっこしている、その裏側で。
特訓組四人の中で、一番乗りで「新しい扉」を開けたのは。
誰でもない——ミラだった。