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#王子
#シリアス
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数日後
春の穏やかな陽だまりが落ちる九条家の広間に、招かれざる不穏な風が吹き込んだ。
父の知人である伯爵家の嫡男──
遠野が、あからさまに高価な進物を携えて訪ねてきたのだ。
表向きは新年の挨拶の遅れという名目だったが、その蛇のように粘着質な瞳は
茶を淹れる私の手元を執拗に追い、不躾な視線を投げかけてくる。
「桜子殿、近いうちに上野の不忍池へ花見に参りませんか。真壁少尉はお忙しい身でしょう?」
「軍務で家を空けがちな男を待つばかりでは、せっかくの若さが萎れてしまう。私が最高の特等席を用意して、貴女をエスコートしましょう」
遠野は、許嫁である志進様がすぐ隣に座っていることなど微塵も介さない様子で
品性の欠片もない笑みを浮かべて私の手を取ろうと身を乗り出した。
私はあまりの無礼さに身を硬くし、助けを求めるように志進様を見やった。
けれど、志進様はいつものように穏やかな、一点の曇りもない完璧な微笑みを崩さない。
「それは名案ですね、遠野殿。貴方のような高潔な家柄の方にエスコートしていただけるなら、箱入り娘の桜子も、きっと安心して春の景色を愉しめることでしょう」
(……えっ?)
心臓が、嫌な音を立てて跳ねた。
視界が、一瞬だけ白く明滅する。
志進様、どうしてそんなに平気な顔をしていられるの。
私は貴方の婚約者で、もうすぐ貴方の妻になる身なのに。
他の男性に、それもこんなに侮蔑的な誘いを受けて、どうして聖者のように笑っていられるの。
「志進、様……? 本気で、仰っているのですか」
「ああ、桜子。僕に遠慮はいらないよ。君の広い世界を、僕という存在だけで狭めてしまう権利は、僕にはないからね」
志進様は、私のために淹れられた茶を静かに一口すすり、慈しむように目を細めた。
その言葉は、どこまでも物分かりが良く
そして──どこまでも私を突き放す、断絶の響きを持っていた。
やっぱり、この人は私との婚約を、避けられない『義務』や『家同士の契約』だとしか思っていないのだ。
だから、私が誰の隣に座ろうと、誰に指先を触れられようと、その心は微塵も揺らがない。
「……失礼いたします」
私は、こみ上げる熱い涙を必死に隠し、逃げるようにその場を後にした。
背後で遠野の勝ち誇ったような笑い声が聞こえた気がして、耳を塞ぎたくなる。
廊下を走り、庭園に面した薄暗い縁側の影に身を潜めた。
春の風が、怒りと悲しみで火照った頬を冷たく撫でていく。
(……大嫌い…意気地なし)
自分の不甲斐なさと、志進様のあまりの冷徹な「正論」に、唇を血が滲むほど噛みしめる。
すると、背後から衣擦れの音と共に、静かな足音が近づいてきた。
「桜子…急に立ち去るなんて、遠野殿に失礼だよ。九条家の名に傷がつく」
志進様の、いつもの、反吐が出るほど優しい声。
でも、私は振り返らずに、震える声を絞り出した。
「どうして、あんな酷いことを仰るのですか。私…志進様以外の殿方とお出かけなんて、死んでもしたくありません!どうして、あんな男に私を渡そうとなさるの」
「それは、君が『婚約者』としての責任感に縛られているからだろう? 優しい君のことだ、僕を傷つけまいと無理をしている」
「君がもし、僕よりも相応しい方を見つけたなら、僕はいつでも身を引く覚悟を──」
その言葉を、最後まで言わせたくなかった。
私は勢いよく振り返り、彼の胸元を掴んで問い詰めようとした。
けれど、それよりも早く。
「……っ、もういい。嘘をつくのは、……限界だ」
志進様の強靭な腕が、蛇が獲物を捕らえるような速さで私の腰を強引に引き寄せた。
逃げる隙も与えず、私の背中が冷たい木の柱に押し付けられる。
見上げた彼の瞳は、もはや「優男」のそれではない。
そこにあるのは、理性を焼き尽くした濁った情熱と、獣のような剥き出しの独占欲。
「……志進、様……?」
「あんな男に触れられそうになって……その隣で、僕がどんな思いで笑っていたと思う?…喉元までせり上がった怒りで、狂いそうだった」
耳元で囁かれる、低くて、地を這うような熱い声。
掴まれた肩に、彼の指が容赦なく食い込む。
軍服の奥に隠されていた、猛々しい「男」の輪郭が、痛いほど私に押し付けられた。
志進様は、私の首筋に顔を埋めるようにして、吐息を漏らしながら震える声で繰り返した。
「桜子…本音を言えば僕だって、君が他の男のといるのを想像しただけで嫌だよ。優しくなんてしていられない。君をこのまま、誰の目にも触れない場所へ連れ去ってしまいそうになるんだ……」
初めて見る、余裕を失い、惨めにすら見える志進様。
彼の手の震えが、私の心に深く
そして激しく、言葉にならない歓喜と恐怖を突き刺した。