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あの日、薄暗い縁側の影で強引に引き寄せられたあの熱情が
今もまだ肌の表面に生々しく焼き付いているような気がした。
耳元で聞いた、獣のような低い喘ぎ。
私の肩に食い込んだ、指先の震え。
けれど、翌朝の食卓に現れた志進様は、昨夜の激情など春の夜の夢だったかのように
またしても非の打ち所がない「完璧な優男」の仮面を被り直していた。
「おはよう、桜子」
「お、おはようございます」
「……昨夜は、少し感情が高ぶりすぎてしまったようだ。軍人としてあるまじき醜態を晒し、君を怖がらせてしまったよね。心から謝罪するよ」
朝食の席
彼はいつものように穏やかに微笑み、淀みのない所作で私に丁寧な一礼をした。
その双眸は、もはや私を射抜くような熱を帯びてはいない。
凪いだ海のように静まり返っている。
まるで、昨夜の痛切な告白を「なかったこと」として歴史から抹消しようとしているかのようで
私の胸は余計に万力で締め付けられるように痛んだ。
「志進様、昨夜の……あのお言葉は…あんなに苦しそうに仰ったのは……」
「忘れておくれ。……僕は帝国海軍の軍人だ。一時の激情に駆られ、自分の感情すら制御できないようでは、国家はおろか君を守る資格なんて、どこにもない」
彼は淡々と、骨の一本すら残さぬ鮮やかな手つきで焼き魚を口に運ぶ。
その仕草一つひとつが、あまりにも上品で、そしてあまりにも……手の届かないほど遠い。
(どうして……? あんなに壊れそうな顔をして、私を求めてくれたのに。どうして、そんなに簡単に『軍人』という殻に逃げ込んでしまうの?)
私は居ても立ってもいられず、震える手で箸を置いた。
志進様は、私が『婚約者』という、家同士の契約上の立場に縛られているから
自分に同情し、慈悲をかけているのだと誤解しているのかもしれない。
「志進様、私は……義務や責任感で、貴方の側にいるのではありません。私は、私の意志で───」
「桜子」
私の言葉を遮るように、彼は静かに、けれど鋼のように硬く冷徹な声を出した。
「この縁談は、九条と真壁、両家にとって最善かつ合理的な選択だ。僕が君を大切にし、慈しむのは、それが人として、男として『正しい』道だからだよ」
「……それ以上の、濁った個人的な感情を君に押し付けるのは、僕の傲慢であり、君への冒涜だ」
───正しいから。
その言葉が、研ぎ澄まされた冷たい刃となって、私の無防備な心に深く突き刺さる。
彼は、自分の中に渦巻く鮮血のような愛を「傲慢」だと切り捨て
私を「自由」という名の残酷な孤独に突き放そうとしている。
それが彼なりの、軍人としての
そして幼馴染としての、命を削るような『誠実さ』の形なのだと分かってしまうのが
何よりも辛く、耐えがたかった。
「……そうです、か。志進様にとって、私は『正しい選択』でしかないのですね…そこに、貴方自身の心は介在していないのですね」
「……ああ、君は、僕が守るべき最高の『任務』だよ」
彼は一度も、こちらを見ようとはしなかった。
伏せられた長い睫毛が、微かに、けれど絶望的に震えていることにも、気づかないふりをして。
「……失礼いたします」
私は椅子を蹴立てるように席を立ち、逃げるように部屋を飛び出した。
背後から、彼が小さく喉を掻き切るような押し殺した声を漏らした気がしたけれど
振り返る勇気は、もう私には残っていなかった。
私たちは、お互いを狂おしいほど想うあまり、自分たちの間に一番鋭利な刃を突き立てていた。
『義務』という名の、優しくて、救いようのないほど残酷な刃を。
#王子
#シリアス